松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# hal44 『議論が一巡してきた感じがあるので、私は自分の一番最初の発言に戻ります。
ある価値観の普遍性とその自明性の問題です。
Swan -Slabさんが仰るような、啓蒙主義的、欧州中心的な価値観の解体というのが、カルチャル・スタディース及びポスト・コロニアルスタディースのここ20数年間の主要テーマでした。そしてその結果として現れた価値相対主義的な世界において、いかなる普遍的な価値観を共有することが可能であるかと言うことが現在の主要なテーマであると言えると思います。「人権」というはその普遍的に共有可能な価値観の礎になるものですが、その正当性が常に自明な範疇ではなく、現実に於ける適用においてはそれぞれの文脈で常に再解釈され続けなければならないものだとしか、一般論としては言いようがないように思います。』 (2005/03/28 02:20)

# N・B 『 まずはじめに、私がここで明らかに余計なのにレイコフの理論を紹介(宣伝)した理由から。現在のネットでの(あるいはその外での)政治的言説はかなり混乱していると思います。これは日本では端的に昭和時代の右左図式の自明性に寄りかかっていた反動です。ただ問題は左右の図式を超えなければならないと称する言説に限って実ははっきりと図式的選択を要求していることです。とりわけたちが悪いのは自らの立場の自明性と「日本」の現実のの動向を暗黙に重ね合わせて、単に日本における「多数派」への服従を求めるに過ぎない言説が多いということです(実感主義がこれを支えるわけですが)。価値観についての世界的な混乱があるのは確かですが、私たちが現実に行わなければならない具体的な作業が、inndex homeさんの仰る「困難で、忍耐のいる、疲れる作業」や、hal44さんの仰る「現実に於ける適用においてはそれぞれの文脈で常に再解釈され続けなければならないもの」である以上、具体的にどのような別の見方がありえるか示したかったということです。

 その上で、野原さんの疑問に答えると、細かいことで言えば、厳しい父親と慈しむ親とは男性女性ということではなく、共同体とそのあり方に関するモデルのことではないかと考えます。レイコフにおいて、「モラル」とは優先順位の違いによって決定的に変わるものであり、例えば「慈しみ」と「自己規律」は「リベラル」にも「保守」にも価値がありますがどちらを優先させるかによって決定的に違うわけです。問題は現実の認識が、持っているモラル図式に適合するように行われる傾向があることです。かつて、私はこういう事態を、認識のモラル負荷性とか、言説のモラル負荷性といいました(この場合の「モラル」は通常の意味ではないわけです)。ただ、あまのじゃくは「権威主義」への解毒剤だというのは確かです。こういう理屈を使いすぎると往々にして現実のややこしさが見えなくなります、やはり今の社会での現状追認の蔓延が一つの理屈で解けるとは思えません。

 パトリオティズムの問題点ですが、ナショナリズムがその人工性と線引きの問題を常に伴うことによって、他者に敏感になる契機を持っているのに対して、パトリオティズムはそれを抱くものがその自明性と自然さに安住してしまう、もしくはそれを損なうものに恐怖を感じやすいのではないかと思うからです(上で述べた実感主義の問題に近いですが)。もうひとつ、パトリオティストの代表の一人である、ジョージ・オーウェルに不信感があることも一つです。彼の晩年に行っていた友人の密告はそれがエリア・カザンのような生き延びるためでも、レーガンのような人格の問題でもないだけに厄介だと思います。

>隣人とはどういう存在かという問いは、「汝自身を知れ」という問いと表裏一体
 私が「枠」の問題が重要だと述べた理由はこれだと思います。つまりサマリア人は隣人と思うかがが逆にその人の自己規定なるわけです。なんか勝手ですが。上に挙げた例はその応用だと思います。

>啓蒙主義的、欧州中心的な価値観の解体というのが、カルチャル・スタディー
 このような動きに対しては「現実派」から批判がありますが、両者の議論がまるでかみ合わないのは、実のところ「現実」を称する側が自らの「現実」という言葉の認識や使用のバイアスに気づいていないということがあります。それは批判され側も同じですから相互不信だけが深まるわけです。このとき、「現実派」にも「リベラル」はいるのですが、学派の争いとしての側面がこれを消してしまうのではないかと思います。

>マイケル・ウォルツァーという政治学者。
 ちなみに、このマイケル・ウォルツァーを初め、コミュニタリアンの系譜に属する論者の方がアメリカでは9・11以後に戦争推進的になってしまった例は多いのは微妙です、レイコフはどちらかというと、コミュニタリアンに好意的だっただけに彼のモデルを見ても危うさを含んでいるわけです(レイコフ自身はアフガン戦争から反対でしたが)。ただ、普遍性とアメリカという特定の国家が用意二度生津氏されてしまう背景としては、古矢旬さんの著書などが参考になるのではないでしょうか。

また長々と失礼しました。相変わらず拡散してごちゃごちゃしてすいません。』 (2005/03/28 09:10)

# suikyojin 『愛国心の「国」とは、国なのでしょうか、国家なのでしょうか?
私は前者だと思っていたのですが。例えば、反政府主義者のほとんどは、「国」を愛する故に「国家」に反逆する人々であり、私の認識では、熱心な愛国者となるのですが……。』 (2005/03/30 05:49)

suikyojinさん はじめまして。野原です。
上記の質問においては、国家ではなく国になると思います。
現実の国家が国という心情的なものも統合したものだと自己主張すると、国民はそれを受け入れざるを得ない、みたいな関係が成立していると思います。
軍人の死を国家がどう祀るか=靖国神社問題、学校での日の丸君が代問題、およびその展開としての教育基本法改悪問題 という形で、戦前的国家統合が着々と進みつつあるみたいですね。国民にとってメリットは一切無いように思われますけどね。

index_home 『日の丸・君が代を崇敬せよという意見に代表される「愛国心」は「国家」だと思いますが…「枠」という点ではどちらも曖昧になってくるのかもしれないと私は思ってます。
ちなみに、かつて共産党は「抵抗なくして自由なし、抵抗なくして平和なし、抵抗なくして生活なし、抵抗こそ民族解放の道、全国民諸君、愛国的抵抗にたちあがれ」と言ってますから、共産党愛国者の政党を自認していたのですね。(綱要が変わった今はわかりませんが…)』(2005/03/30 09:02)