松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

# index_home 『引用された発言はアメリカ的正義による価値判断に基づく行動の正当化であって「超国家的社会公共的価値」ではないような気も(そもそもいざとなったら国連をシカトする時点で…)。思想をどう己の価値感に近づけて正当化の理屈にするか、という方法論は古来から行われています。「人権」も新しい概念だと思うので、まだ思考を深めてその定義や意味を広めていかなければならないのかもしれません。「公共」「人権」ともに引き合いのだしようによっては間違った方向に使えることは明らかですし…。それはとても困難で、忍耐のいる、疲れる作業なのでしょうけど。』 (2005/03/27 15:57)

# swan_slab 『>では隣人とは誰か>
>我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者>ライス

隣人とはどういう存在かという問いは、「汝自身を知れ」という問いと表裏一体の関係にあるように思います。

>引用された発言はアメリカ的正義による価値判断に基づく行動の正当化であって>hikaruさん
これは必ずしもそうは認識していないひともいますね。日本政府の対応しかりです。
「超国家的社会公共的価値」といえども、価値相対主義的な視点でみれば、ひとつのイデオロギーに過ぎません。マイケル・ウォルツァーという政治学者がいるのですが、彼によれば、イデオロギーが成果を収める条件の一つには普遍性の偽装があるという。イデオロギーは普遍性を得ようと懸命に努力するというわけです *1。例えば、フランスの植民地拡大の論理がユニバーサリズムに基づいた自国の文明の拡大を大義にしていたことを想起することもできます。アフリカに植民地を拡大し、奴隷解放論を展開しながら、他方で自国の言語習慣文化を押し付け、本国の経済社会システムに取り込もうとする植民地支配への認識はほとんど省みられることがなかったと『フランス植民地主義の歴史』平野千果子は述べています。

「公共」「人権」ともに引き合いのだしようによっては間違った方向に使える>hikaruさん

誰がどのようなプロセスで「間違っている」と判断するのか、そしてどのように解決手法を選択するのか、について、国際社会はまだ未熟すぎて答えを出していない状態なのでしょうね。』 (2005/03/27 18:01)

*1:『解釈としての社会批判』P52