松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

性を、一旦破棄して考える(続き)

えーと。(11/27訂正版UP)
「男性/女性/中性など、生理の規範としての性を、一旦すべて破棄して考える こと」について考えてきたのでした。
松下の文章は4頁(4部分)からなる。要約すると以下の通り。
1.わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。
2.「性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何かの呪縛から私たちは脱していない」
「男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度である」
3.胎児の段階でヒトは男女に分化するが、性というものを自意識において捉え返すことは、幼児〜思春期までなされない。
「性別の存在と性別の意識は不均衡〜非対称である。」
4.性行為を複素数空間において考察すること。

(2)
 反対概念というのは奇妙なもので、<明るい/暗い><高い/低い>など、反対概念の和は全体であるかのようにイメージされてしまう。目の見えない人は<明るい部屋/暗い部屋>の差異が理解できない。明るさを直接把握することはできないのだ。しかしながらすべての文章のうちから<明るい又は暗い>が付くフレーズを集めれば、それがどんな時につかわれる言葉なのか、どういう雰囲気をもった言葉かが分かるだろう。それと同時に、<明かるさ>をあらかじめ知っている人たち(わたしたち)には普通理解できないあることにも気付くのだ。つまり(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)がどこにあるのかが分かる。
 「それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、」というセリフはとても滑稽な印象を与える。大学に対し反大学というものしか頭のなかに描くことができず、つまり広い意味での大学(知的世界)だけが世界であると思っている自分を知らず知らずに白状してしまっているからだ。
 さて、「大学はすでに本質的に解体している」とはどういうことだろうか。知の体系が存在するためには、〈(考察し研究する)主体−対象〉という構図が必要である。〈大衆団交〉が実現可能だったことは、その構図が崩れたことを意味する。〈死者の声は聞き取ることができる〉〈サバルタンは語ることができる〉というアプリオリから出発するのが、松下のスタイルである。サバルタンの声を想定することはサバルタンでないものがサバルタン性を表象代行する事であり犯罪的である、という批判の可能性がある。しかしその批判が成立するかどうかは、わたしがどこに立っているかによる。大学の中のインテリとして発言することと、それと対極的な場で発想することは違うのだ。〈現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでid:noharra:20040721〉語る場合とは。

(3)

 たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。

松下は何を言っているのだろう。ポルノ写真の性器とわたしの器官が出会う回路とは?毎日送られてくるスパムメールには美女の写真付きの物もたぶんあり、その場合その女性に出会うべき回路も指示(または暗示)されているのだろうが、そういう場合を除けば、ポルノは出会えない可能性においてポルノであると思われるのに松下は違うという。その写真をどのような眼差しで見るのか、スケベオヤジの視線でか、商品としての視線でか、少年の無垢な好奇心か、失われた横田めぐみさんを見るようにか、そのような視線のあり方を言ってるだけだろう。読者の性器写真への眼差し(回路)の在りようは多様であり、それを一概に「猥褻」「オヤジの眼差し」と決めつける根拠は裁判所にはない、と松下は主張する。
ところで女性にとってなぜポルノか?<具体的に股開いて金稼いでない人は、自分の変わりに誰かが股開いて生きている、という一瞬(へ?)というしかないような構造で世界が成り立っているということを肝に銘じておこう*1>といった発想がおそらく山本氏にはあったのだろう。ポルノ写真を一枚一枚見ながら松下はその裏側に<世界を転倒せずには生きられないが、同時にそうした文に決してたどり着くことのない>性器たちの静かな叫びを聞き続けたのだろう。
ただ、そのような理解ではまだ不足だろう。叫んでいない性器たちから無音の叫びを聞くとは、性器を〈サバルタン〉と位置づけていることだ。あるひとがサバルタンであるとはその人との回路が非対称的である、つまりわたしが主体でありサバルタンは客体であるという関係がどのようにしても動かしえないことを意味する。しかしながら松下は断言する。非対称性は欲望も刺激しないし、性的本質と敵対すると。*2

「多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも、性的本質とは無関係であり、敵対している。この視点を疎外する位置にある場合には。*3
ポルノを見てオナニーしたりあるいは娼婦を抱くといった行為は本物にたどりつけない人のための不完全な偽物だと一般に思われているが、いわゆる本物の性行為に対し松下は、性的本質に敵対するものだ、と断言する。それでは性的本質とは何なのだ?
(4)
成熱した男と女の自然な行為として〈性〉行為を考えることを松下は批判する。「むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因〜止揚条件から考察を始めるべきではないのか。」というのが松下の主張である。正常な器官の結合を基準とする直線的価値観を廃棄し、未成熟〜はみ出した身体同士の接触の多様性平面を想定しそれにさらに幻想過程という次元が追加されたn次元において、ズレだけでなく一致も存在しうることの驚きを展開していく、といったイメージだろうか。
「〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命〜幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察〜実践し、それを現代文明の対象化〜転倒の試みと連動させつつ展関する作業」こそが求められている。
ダンテはベアトリーチェを誉めたたえることにより性愛の幻想が「社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうること」を描いた(予感した)。*4性愛の器官的実践を含む多様な幻想的〜器官的実践と考察が、あくまで現代文明(既成概念)の対象化〜転倒の試みを基軸として試みられなければならない。と書いたが「……しなければならない」とは松下は書いていない。そうではなくて現代文明につきまとう当為というモードこそ、解体されなければならないものに含まれる。←この文章もまたパラドックスになった。「これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提」として、目標に向かって進む(目標が実践的なものであれ否定神学的なものであれ)というモードがあった。とも言って良い。松下の思想が、現在の文法では語り得ない目標に向かっていることを、彼の文体の分かりにくさが示している。何重にも留保し、結論を繰り延べ、かと思うと急に過剰に断言するといったスタイル。

*1:http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041111のコメント欄 のchimadc発言

*2:〈男〉はいつもサバルタンを抱いてきた。        非対称性とは何か?「股開いて金稼いでない人」とは?それはつまり典型的には、USAならWASP、日本では有名大学卒業有名企業就職男子という存在様式を持ちながら、なまじインテリで左翼で善意を持ち、セックスワーカーなんかに手をさしのべる存在。と彼らの知の対象であるサバルタン存在。(詩人たちはいつでもサバルタンを必要とした。学問がこのレベルに到達したのがポスト構造主義ないしポスコロの時代だったと考えることができる。)インテリ/サバルタンという構造を、ブルジョア/プロレタリアにならって社会全体に押しひろげることができる。と稚拙に描かれた構図がふつうに具体化している現実があったとき、ひとは「一瞬(へ?)というしかない」! (だが、「一瞬(へ?)というしかない」その一瞬に「へ?」と言えるのはサバルタンの側であろう。反サバルタンは鈍感であることによって定義される。) 即ち、善意の左翼インテリである野原燐(男性)は、「鈍感である」という自覚において辛うじて左翼たりうる。ここには越えられない溝があり、その深さに無自覚であれば“一生幸せに生きていく(他者を殺しながら)”ことしかできない。

*3:野原が文章を少し縮めています

*4:ダンテのことは分かりません。