松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

性を、一旦破棄して考える

この日記ではなぜか、西尾幹二山形浩生との激突というエピソードがあったわけですが、最近「ジェンダーフリー」ないしその使用法について広範な議論が巻き起こっているようです。ジェンダーという言葉がフリーという言葉と結びついて、正確な概念から離れつつ流行語になったこと。その背後には、女/男という概念はすでに〈拘束〉でありそこからの離脱を求める漠然とした気持ちが(フェミニストの想定を越えた広範さで)あった、ということは事実でしょう。上の松下の文章はそうした諸テーマを、早い時期にフェミニズムとは無縁の場所で表現したもの、と言えます。

 上記の松下昇の1991年のテキストを読んでみる。
江戸や明治に出された本に比べると遙かに読みやすい。人間が読みやすいだけでなくスキャナーでOCRにかける時も昔の本などはふりがなや返り点などが多すぎてまず駄目だし、漢字も異字体や正字が多く上手くいかないことが多い。*1松下氏の文章は、〈 〉や〜が多いとして形式面でも難解とされたが、字体などという点では私たちの時代の標準に近い。ワープロで打ったものだから当然だが*2
 難解でとっつきにくいという感じを持ってしまった。タイトルにある「非対象」という概念が分かりにくい。とにかく読んでみよう。
 最初、言語における性(ドイツ語やフランス語など)が出てくる。性をジェンダーと言ったときにまず出てくるのがこの「性」であるのは承知の通り。*3「なんで女が中性なんだ!」といった理不尽を呪ったことは誰しもあるだろう。*4わたしたちはすでに言葉ができあがった世界に住んでいて言葉でしか考えられないのだから問えない。だがこの〈理不尽〉の向こう側に、物と言葉が初めて出会った情景の影があると想定してもよいだろう。言葉とは抽象であるわけだが、わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

言葉というものは、人類の(あるいは全自然の)悠久の歴史をその背後に隠し持っている、わたしたちはそれを直接知ることは出来ないが直感によって感じとることは出来なくはない、そういった思想がある。*5松下の文章の背景にもそのような思想があるようだ。
a「言語の発生から血族社会内部での流通過程において、人々があらゆる対象を直接ふれたり評価したりできる〈もの〉として記号化し、かつ〈性〉的に区分する世界観(共同幻想)の中で相当長い期間を過ごした」という長い時間が想定される。しかしそうした時期は原初のユートピアではない。〈もの〉としての直接性であるかのように言葉が意識されていた、ということだ。
b「あらゆる対象を〈性〉に区分して認識する段階を越えても、慣性的な逆作用により、あらゆる対象を区分〜交接可能な概念としての〈性〉質に区分〜体系化しようとするヨーロッパ系言語の基底にある」志向は残った。社会的諸関係の拡大によりaという段階は終わるが、そのときの〈幻想的拘束〉は〈残像〉を残す。それが名詞における〈性〉である。
cさらに貨幣制度が導入され、社会的関係の拡大により〈もの〉に直接ふれうる度合はどんどん減少し、言語における〈性〉は消える。これは英語の場合にだけ観察しうるが、方向性としてa→b→cというベクトルを想定することは可能だろう、と言っているようだ。このベクトルに対し松下はそれを進歩とも堕落とも価値付けない。(11/20 7時追加)

*1:というか漢字というのはもともと多様性に富んだものだったのを日本の戦後の政策でむりやり簡略化したものである。だから現在の基準に合わせて昔の字を異字体だと評価するのはその評価自体が不当である。

*2:手書きのものは1行がよく2行に分かれて流れていく

*3:この15年間で誰もが知るようになった言葉がこのジェンダーだが、その経過は「失敗」だったとも言う。これについてはまた書こう。例:http://tummygirl.exblog.jp/857963/

*4:私はフランス語教室に何年も通ったが勉強しなかったので知らないが。

*5:吉本隆明『言葉からの触手』ISBN:4309407064 など。