松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私の自主講座運動

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/jishukoza.html
に、松下昇氏が1969年12月に東京都立大学解放学校でおこなった講演の記録を載せました。
 松下は階級闘争自体は否定しない。ですが、「常に人の言葉で戦い、人の言葉で死ぬということは、本当に戦うこと、死ぬことになり得ないと思います。」という形で、「古い形の階級闘争」を否定する。そして次のようなビジョンを提示する。
 いいかえると、闘争過程において自分がどのような言葉をつくり出したか、どのような言葉にひかれて、それをになってきたかという問題です。常に人の言葉で戦い、人の言葉で死ぬということは、本当に戦うこと、死ぬことになり得ないと思います。ですから、先程もいいましたように、情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出さないかぎり、本当には戦えないし、戦いを永続化できないでしょう。ということは、自分をそのように表現させる世界の根拠を、自分が叫び声をたてざるを得ない根拠というものを徹底的に追求することであって、それは政治という領域をはるかに超えた行為だと思うのです。
 この30年間、階級闘争という言葉は使われなくなり、「護憲」とか「平和」とか言うとりあえず誰もが否定しにくい美しい言葉が持つ力に依拠している運動がほとんどになった。絶対的価値はわたしではなくそちらにあり、「わたし」は薄っぺらな負債を感じ運動する、といった図式。階級闘争であってもなくても、こうしたものは本当の運動とは無縁のものである。そう断言する地平からさらに跳躍するのが、松下昇である。彼が難解に感じられるのは彼自身のせいではない。(といってもしかたないが)