松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「君が代」という歌はやっぱりどうなのよ?

T.MURACHIさんと言う方の意見は率直でわかりやすく感じた。
http://harapeko.asablo.jp/blog/2009/07/04/4412196
この方はまず、国旗や国歌について「それらが象徴するものが天皇であり、あるいは天皇制であるとして、それらに対して反発的な感情を持ち合わせる理由がないからだ。それだけおいらは、平和な時代を謳歌してきたと言うことでもある。」という。
私にとっては残念ながらこれが今の若者の圧倒的多数の感じ方だろう。

もしも、国が君が代の君を「天皇のことだ」と断定するならば、天皇制を廃し、完全な立憲君主制に移行したはずの、現在の日本国の国歌には相応しくないのではないか、ということになるし、逆に、国が君が代の君を「国民、すなわちまさに君のことだぁm9(`・ω・)ビシッ」と断定するならば、じゃあそうなるずっと前から歌われてきたこの歌の意味を、体制に応じてねじ曲げながら国歌として使い続けるのはどうなのよ? ということになってしまう。
http://harapeko.asablo.jp/blog/2009/07/04/4412196

戦後ずっと、政府は「君」というのは、天皇ではないと言いつづけてきました。ところが。

七月一日、衆議院内閣委員会で、「国旗・国歌法案」の審議が始められた。そこでは、政府側は六月二十九日の衆議院本会議での小渕首相の答弁の内容に依拠しつつの説明をくりかえし続けた。
 小渕首相は「君が代」の解釈については以下のように二十九日に主張していた。
 「君が代の歌詞は、平安時代古今和歌集和漢朗詠集に起源を持ち、祝い歌として民衆の幅広い支持を受けてきたもので、『君』は相手を指すのが一般的で、必ずしも天皇を指しているとは限らなかった。
明治時代国歌として歌われるようになってからは、大日本帝国憲法の精神を踏まえて、『君』は天皇の意味で用いられた。
終戦後、日本国憲法が制定され、天皇の地位も変ったことから、『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく天皇を指しており、『君が代』とは日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とするわが国のことであり、歌詞もわが国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当だ。」「『代』は本来時間的概念を表すものだが、転じて『国』を表す意味もある。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311412663

ところが1999年国旗国歌法制定直前には上のように答弁します。
君は天皇である。しかし「君が代」は天皇の治世のことでも天皇の寿命のことでもない、「わが国」のことだ。
後段が意味不明ですね。

政府(文部省)はおおむね戦後ずっと教育現場に君が代を定着させることに熱心でした。1999年以前は君が代が国歌であるという法的根拠が存在しなかったにも関わらず。
その時どきで「君」「君が代」の解釈が変わっていったという事実があります。にもかかわらず、君が代の定着はずっと文部省(文科省)の悲願でした。正確には、文部省と一部右翼の人たちですね。今回の上田知事は後者になります。発言することにより少しづつ世論をずらしていくわけです。

ひとつの国家の基礎である以上その意味は誰にでも明確なものであるべきだ、というのが、T.MURACHIさんの感覚である。まったく同意するしかない。

公立中学校は奴隷養成してればよいのか?

6/24のコメント欄でantonianさんと少しお話ししました。

まぁ、あと個人的な体験というか、わたくしが中学に上がる頃、学区の公立校は日教組が牛耳り左翼思想が吹き荒れていて、それが嫌なら私学行くしかなかった・・って、そういうのどっかおかしいなと。小学校の時の左翼教師の糞っぷりを目の当たりにしていたので、そういう感触を持っています。「小学生のガキに連合赤軍みたいに総括求めるなよ。糞が。」みたいな思い出があります。だから左翼嫌いになってしまいました。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090624#c1246683311

 ばかな左翼が権力をかさにきて子供を指導しようとしたツケがまわってきたわけですね。困ったことです。
 わたしの小学校の時は左翼教師の思いでもないし君が代などの記憶もないです(忘れているだけかもしれないが)。中学高校は、受験校で「6年後に東大行くかどうかだけが論点でそれは君の自由、その余ももちろん自由」という学風で、高校全共闘みたいなのはありましたが君が代日の丸はなかったです。


 で数年前、子供が公立中学校に行きはじめて公立中学校というものを(脇から)体験したわけですが。公立中学校というのは(おおげさにいえば)軍隊的秩序を目指しているところなんだなということを初めて知りびっくりしました。
でもそれも根拠はないことはない、とも考えられます。というのはうちの地区は決して悪いといわれる地区ではなく普通だと思いますがそれでも、学級秩序というものを辛うじて成立させるのが精一杯で、先生が殴られる事件もあり、半学級崩壊などもかなりあったようです。むりやり秩序を維持するためには、少しぐらい軍隊的とみえるような方法を現場では取らざるをえないということもあるのかもしれません。
ただそう考えるのも一面的だろうとは思います。今の中学生は大人になろうという意欲をあまり持っていない(ゲームが好きなら今すれば良いので大人になるまで待つ必要がない、十年後もおなじことをしているのだとすると大人になる意味はない。)いい学校へ行っていい会社に入ってという構図も成績が真ん中の子には当てはまらない可能性が強い。*1
(話が外れた)今の中学でもなんとかできることはあるはずだとは思いますが、対症療法としてとりあえず対応できるのが軍隊的とみえるような方法であるということですね。
で、日の丸君が代の強制はこの軍隊的文化と協調性があります。


ではそれでいいのではないか、ということになるでしょうか。日本は私立中高を出た*2金持ちのインテリが支配する国であると。公立中高を出た年収も学力も中程度以下の人において大事なことは、まず大事なことは上に対する従順さである、と。
事実は現在も半ば以上このとおりなわけかもしれませんが、それでよいのでしょうか。百歩譲っても、いわゆるIT革命などによって日本の労働者に求められている資質はもはや従来のような従順さ勤勉さではない、創造性だと言われています。橋下知事が基準として求めている学力は、PISA準拠のもので考える力を求めるものです。従順さ(本音と建前の使いわけ)などという能力で生きていける時代は終わったのです。


なお、軍隊的文化という言葉を使いましたが、これは「日本の戦前の軍国主義」とは特に関係なく、問答無用であるルールを強制するという意味で使いました。

*1:それよりモテ修行して社交性を身に着けた方がましかも

*2:大学は国立

東洋自由の原理は強制になじまない。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090624#c1246678405
修身斉家治国平天下という儒教道徳の基礎は、自己の中で自己を充実させることにより聖人に至りうる自己を確立することにあります。他者の教えに唯々諾々と従っているようではダメなのです。この考え方は本来天皇主義の中にも採り入れられているはずなのですが。(野原)

と昨日書きました。儒教は体制護持のイデオロギーという戦後左翼的偏見が強いです。歴史的にそうした機能をもっぱら果たしてきたことを否定するものではありませんが、そうではない側面もあることを強調したいと思います。
君が代」を強制したがるひと(上田知事など)を侮蔑するためです。

誠は充実である。意は、心から発出するものである。心から発出するものを充実し、必ず自己に満足し自己を欺かないようにする。
朱子「大学章句」 p126 中島隆博「残響の中国哲学isbn:9784130101042

自己を修めようとするものは、善をなして悪を取り去ることが大事だとわかっているなら、当然、充実した仕方で自分の力を用いて、自己欺瞞を禁止すべきである。悪臭を憎むがごとく悪を憎み、美しい色彩*1を好むが如く善を好むようにして、何としても悪を取り去り、必ず善を手に入れようとするなら、自ら自己に満足できる。しかし、かりそめにも外に従って他人を気にしていては駄目である。充実しているか充実していないかは、思うに、他人がうかがい知ることができないもので、自分一人がわかっているものだからだ。だから、必ず自分一人の状態を慎んで、そのきざしをつまびらかにする。
(同上p127 朱子「大学章句」)
http://kanbun.info/keibu/daigaku06.html

はじめに自己(心)がある。心から発するものにおいて自己欺瞞におちいらないようにし、悪を遠ざけるようにする。自己のありようは自分一人しか分からない。だから余計に自己を正確に取り扱うことが求められる。

 学は立志より要なるはなし。しか(而)して立志も亦之を強(し)ふるに非ず。只だ本心の好む所に従うのみ。(佐藤一斎

 外的利害などによる他者からの誘導を撥ね退け、純粋な〈志〉において判断し、また社会に働きかけていく。
 佐藤一斎の弟子である西郷隆盛が、明治維新の時期に行ったように、それは時としては体制や法の枠組ですら突破するものでありえた。
 まあそれは昭和維新期のテロリストたちにつながっていくものでもあり、それが問題であることは否定しない。しかしあの悲惨な戦争を遂行した第一義的責任者は、官僚体制のなかで生き延びてきた軍人たちや革新官僚、政治家たちであり、テロリストたちではないことに注意しなければならない。
 
 
 責任の所在をはっきりさせず自己の卑小な利害のために、服従好きな国民だけを欲してきた顔の見えない官僚たちを憎悪し、君が代をうまくすり抜けていこう!

*1:好色 普通の意味に取ってもいいだろう