松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日の丸を嫌う権利

 埼玉県の上田清司知事は1日、入学式など式典の国歌斉唱の際に起立しない教員について、「日本の国旗や国歌が嫌いだという教員は、辞めるしかないのではないか」と述べた。6月定例県議会で吉田芳朝県議の一般質問に答えた。

 県教育委員会によると、式典で国旗掲揚と国歌斉唱を生徒に指導することは、学習指導要領で定められている。だが、平成20年度の卒業式の際、県立高校と特別支援学校計10校で、国歌斉唱の際に起立しない教員がいたという。

 上田知事は答弁で、こうした教員のいる学校名を公表すべきとの考えを示した上で、「ルールに従い模範を示すべき教員が、模範にならないようではどうにもならない」と述べた。

 ルールを守らない教員への処分に関しては、県議会終了後の報道陣の取材に対し、県教委で判断すべきとの考えを示した。
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/090701/stm0907011751016-n1.htm

 公務員には日の丸を嫌う権利がない、と上田知事は主張していると考えてみる。
 公務員は憲法と日本を尊重しなければならない、に同意しておく。で問題は日本をどう理解するかだが、どうもおかしな国ではないか。
日本という国自体が、おかしな国なのではない。日の丸君が代の制定(そして強制)のされ方、天皇の位置、「先の戦争」の総括の仕方、といったもの、いってみれば日本というものの神学的基礎が戦後64年も経ってもまだぐらぐらしたままのように思われる。客観的にはどうか分からないが主観的にはとても恥ずかしい情況であると思われる。
一度くらい戦争に負けたからといって、米国の属国になり下がってしまうとはなさけない。やれやれというしかない。

むしろ、なぜ日本人は、戦略でも狡猾さからでもいいが、侵略や植民地支配の罪を「天皇制」もしくは「天皇制国家」のせいにして、「日本人」を救おうとしなかったのか。
http://watashinim.exblog.jp/4341943/

 日本人がものを考える時の最終審級は天皇しかなかったからだ、と答えることができる。それがおかしいと思える人は「近代の超克」を甘く見すぎである。戦後左翼の最大の思想である9条原理主義は、「近代の超克」の左翼版である。
それでも、1945年にわたしたちはリセットされ「平和と民主主義」に目覚めたのではなかったのか、それで何がいけないのか。平和といい再軍備といい、国際情勢において米国(など)から日本に押し付けられたものにすぎない。それを無視して平和主義なりその反対なりを自分が自分の思想として選び取っったと考えてしまう。最近も米国の高価な武器を買わされる策謀であるにすぎないかもしれないのに北朝鮮如きに本気で怯えてみたりする、正気の沙汰とも思えない。


 日本人がものを考える時の最終審級が天皇しかなかったのなら、それはそれでも良かったのではないか、とも考える。
最終審級という抽象的なものとして天皇を考えるのならそれは当然生身の天皇ヒロヒトなどではなく、例えば〈皇祖皇宗〉といったものになるだろう。
裕仁さんに戦争責任はある、少なくとも皇祖皇宗に対して。天皇と手を切るか、そうでないとすれば、その責任を認め退位させるべきだった。
何度も引用しているが、「国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なり」と木戸幸一が言うとおりである。*1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081223#p1


そうさせなかったのは誰か?米国だと考えることもできる。正しい根拠を持った国に日本がなることを米国が望まなかったとしても不思議はない。


今からでも遅くないので、天皇日本国憲法から自己を切り離し、(京都へでも帰って)自由に暮らせばよいと思う。


さて、この記事を書こうとしたきっかけは、けさ下記のブログを見たからでもある。
http://may13th.exblog.jp/9932290/
今上天皇が「やはりあの・・・、その、強制ということではないことがね・・・望ましいと」と言っている大きな写真の下で、埼玉県知事が「日本の国旗や国歌が嫌いだというような天皇は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」と特大のフォントで吠えている。


最初読んだとき、実際にこうした発言があったのだとうっかりしばらくの間信じていた。石原や上田のごときバカと明仁氏のイデオロギー的な差異の大きさをかねがね感じていたからでもあるが。明仁氏のイデオロギーをリベラルとか戦後憲法的とか評価するむきもあるが、やはり広義の天皇主義の範疇で理解すべきだろう。
その上で一旦その立場を評価してみたい。


参考:うーん。上田支持派が多いな。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1279607.html

*1:磯部浅一が死刑直前に叫んだ「皇祖皇宗に御あやまりなされませ」をこれに重ねあわせるのが、野原の〈皇祖皇宗〉理解。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050710#p1

日の丸問題は反日問題ではない。

ゆえに、過去、教師達(学校内の権力)が学生に対し日の丸や君が代を歴史問題という解釈を押し付けたような事も、国家や教育委員会(国家権力、社会権力)のお偉方が条例化してしまった事も、どちらにも反発します。

そもそも公立校の教師は公務員で日本国家におまんま食わせて貰ってるくせに、親方の社旗やら親方会社の日本に反対してるっていうのが筋違いと思っていますね。それが嫌なら私学に行け。と、私などは思います。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090624#c1246683311

日の丸が日本を表象代行することに対する否定、が論点です。
反日上等」は別の論点ですので。
(7/04追記)

私は日の丸が好きです、について(補遺)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090621
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090624 の続き
Lunar_Landerさんへ

1点目

「日の丸が好きです。尊重するべきものだと心得ています。」という認識は、そうした事実(日の丸によって駆り立てられた戦争で多くの兵士が無惨に死んでいった)を隠蔽した上で、成立しているもののように思うのですが。(野原)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090621#p1

一点だけ質問です。
私が知っていること、あなたが知っている事は隠されてはいません。
公になっていることです。でなければ知りえませんから。
そうした事実を隠蔽した上で、とお考えの理由は那辺におありなのでしょうか。
できればその考えに至るまでの経緯と、ソースをご提示いただけますでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090621/p1#c1245582786

「公になっていること」って一体なんなんでしょうかね。「公になっていること」であれば、あなたと私の事実認識は一致できるはずとお考えでしょうか? そうではないことは南京事件論争などでも明らかですよね。
「そうした事実を隠蔽する」という文言で言いたかったことは、そうした事実が「公になっていない」(図書館の本で確認できる程度に)ということではありません。
日の丸君が代の制定(そして強制)のされ方、天皇の位置、「先の戦争」の総括の仕方、といったもの、いってみれば日本というものの神学的基礎が戦後64年も経ってもまだぐらぐらしたままのように、私には思われる。将軍が部下を大量餓死させたら、事情がどうあろうと将軍はその名誉を失うべきだと、私は考えます。わたしたちはそうした責任の取らせ方をしなかった。それは餓死した兵士の怨みの側にわたしたちが立たなかった、ということであり、そのような立場の集積は「餓死者の怨みを隠蔽する」力を持つ。私は以上のように考えます。

質問は私たちが知りうる事を他の人々も知る事が出来るか?でした。
できないのであれば、隠蔽されていると糾弾もできましょう。
いったい世間の人々(一般大衆)はそういう事が出来ない状態なのですか?

上記のように答えはできる、です。ただし普通のTVや学校教育では得られることはかなり限られています。入門に向いているのはご指摘の水木しげるの戦争ものでしょうね。図書館で本を探すとかまでは、世間の人々はあまりしないでしょうがね。

わけのわからない南の島で

それから南方地域をわけのわからない、と表現するのは日本(あなた)から見てのお話で 負の印象を言うのが問題だと考えます。
そういう場所で生まれ育った人がいたら、わけのわからないってどういう事だと
怒るのではないかと思います。
水木しげるとか、なじんで第二の故郷と言ったくらいだし。

「それから南方地域をわけのわからない、と表現するのは」日本兵に感情移入しようとしている私から見た見方であることは、ご指摘のとおりです。


「兵士たちのかなりの部分(約半数)は訳の分からない南の島で無意味に餓死または病死していきました。」この文章はちょっと訂正すべきですね。すみません。兵士たちが死んでいったのは南の島ばかりではない。ビルマやタイ・マレーシアや中国・満洲・アリョーシャン列島、広い範囲で彼らは死んでいった。「訳の分からない南の島で」は「訳の分からない南の島などで」に訂正します。
「そういう場所で生まれ育った人がいたら、わけのわからないってどういう事だと 怒るのではないかと思います。」
言葉尻の問題よりも、現地に「侵略」した経緯をわたしたちがどう理解したか、長い戦後の間現地にどう関わってきたかが、当然「そういう場所で生まれ育った人たち」の関心事でしょうね。
例えば、ニューギニア
・・・まず原住民側からいえば、1942年に突然島へ乗りこんできた日本兵は、同地では史上初めて接する有色外国人の集団であった。それも延べ十数万人の大集団である。それまで少数白人の支配の中で人間扱いされていなかったのに、日本人はこの点で違っていた。原住民の間に期せずして新たな侵入者に対する親近感が生まれた。(略)「戦場パプアニューギニア」中公文庫 p217
・・・
突然やってきた何万もの武装兵士。にも関わらずニューギニアの人は戦後も概ね親日的だったと伝えられています。ただ上記文庫は1993年刊行で、その後、親日度は減っているかもしれません。下のような記事もあるしね。
http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.html
Lunar_Landerさんは「2.戦争について語るつもりがない事」とのことですが、公になっていることを知ることについては肯定的であるようですので、書きました。
(以上)