松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

気がつかない、今は

・・・・・・追悼が要求しているように、自分には負債があることを表明せざるをえないと感じるときが、来るのである。自分が友に負っているものを語るのは義務だと感じる時が。(デリダ*1・・・・・・


自己である限りの自己を大事にするのではなく、むしろ、(潜在的には自己を脅かすかもしれないがゆえに忘れている)あいまいな負債をどんなことがあっても切り捨てないこと。そのことを大事だとデリダは思った。

デリダがわたしたちに気づかせようとしてきたのは、批評実践、すなわち、社会や政治の変革は絶え間ないプロジェクトであると理解すること、放棄することができないもの、そして生そのものになるのと同延のこと、そして排除や抹消をとおして政治形態が作られる法則を読みとることである。(バトラー)(p84 同書)

 ちょっと読みにくいところのある文章だが、深読みすれば、自己=生そのものも排除や抹消をとおして作られたものであり、それゆえ絶え間ない挑発(脱構築)を実践する必要があるのだ、とも読める。

あらかじめ隠されているものを無視すること

自らの聴取の位置、発話の位置をまったく問題化しない態度を、アーレントは没思考性(thought-lessness)という言葉で表現した。“thoughtless”という表現は、一方における批判的思考の欠如と、他方における他者の意見や行為へのアテンションの不在との間に結びつきがあることを示唆している(「不注意な」「顧みない」という意味がこの語の日常の用法である)。「決まり文句、常套句、習律的で標準化された表現や振舞いのコードへの固執は、リアリティから私たちを保護するという社会的に認められた機能をもっている」。そうしたコードへの固執が〈thoughtlessness〉であり、それは、〈thinking attention〉の負担を自己免除し、そのことによって自らのリアリティを極度に選択的なものとする。「選択されたリアリティ」の範囲外に放逐される人びと、彼/彼女らの行いや言葉は、アテンションを向けるに及ばないものとして退けられるか、既存のコードにしたがってのみ解釈される。〈thought-lessness〉は、自らの発話−聴取の位置が問題化されるという不安を回避するための安全装置にほかならない。
(齋藤純一 p94『政治と複数性』isbn:9784000236782


えーその東浩紀批判のためのテキスト断片の1です。デリダは出てきませんが、齋藤純一と東は共著に名を連ねたことがあり、狭い業界のお友達のようなもの(なのでしょう)。

「真理はない」などとデリダは口にしない

その確信とは、真理はつねに解釈から無限に退引し続けているということです。(p66 同書)

この文を「絶対的な真理はない」とパラフレーズしても良いだろうか?
いけない。

「真理はない」などと私が口にしたことは一度もありません。p68

そうではなく逆に、デリダは〈真理への情熱でないとはいいきれないこの情熱〉につねにつきまとわれている、と自ら語る。
どういうことなのか?

私が言わんとしているのは、いつでも使い回しの利く真理、ひろく承認された真理、信用に値する真理といった概念は、私が、私たちが解読作業において探し求めているものと、どうもぴったりと呼応していないということです。解読の果てに、何かしら安定した真の意味へといつしか到りつくことなどありえない。解読を
しようとするなら、真理の歴史、真理の概念の再検討を経ることがやはりどうしても必要となるのではありますまいか。私の全生涯を通じていつも私自身と歩みをともにしてきたものこそ、真理の歴史、真理の概念のこの再検討の作業なのです。68

 ホロコーストとは何か?南京大虐殺とは何か?を問うときひとは、現在歴史学的に確定していることは何かを問うているのではない。歴史のうちに、そして自己のうちにもあるであろうとことの、計りがたい巨大な悪というものを処理したくて問を発するのだ。

ハイデガーの言う意味での、啓示としての、覆いとしての真理、覆いを曝くこととしての真理には、もう倦んでしまった。それは事実です。にもかかわらず、懐疑主義の名のもとに真理を放棄してしまうというのは、私の流儀ではないのです。私は懐疑主義者でなければ、経験主義者でもない。真理と類似する何かが私を惹きつけるのです。この何かとは、私にとっては、到来するものの経験のなかで贈与されるものです。この経験は翻訳できませんし、おそらくは伝達もー伝達不能の真理とは何でしょう?−−不可能です。68

 デリダはある種の神秘主義者であるようだ。到来するものの経験のなかで贈与される真理と類似する何か、を限りなく追求していきます、わたしは、と語るのだ。

そうではない。特異な、伝達不能な真理こそが問題なのです。特異で伝達不能な真理は「ありのまま」に現出することすらないのかも知れない。無意識、−− 精神分析的な意味でというには漠然としていますが、少なくとも精神分析的なタイプの−− 無意識のうちに残存したままでいることもあるのです。にもかかわらず何らかの働きかけをおこなう。それは真理の一様態であって、これが物事を変形させ、働きかけ、またこれに働かせ、物事を変容していくのです。変化や革命の生じるときには、いつも何かしらの真理が介在します。
啓示というよりもむしろ、変化や革命の話です。69

 伝達不能な真理なんてことをデリダは言い始める。むかし吉本隆明ディスコミュニケーションなんてことを強調していた。一定の類似はある。デリダの哲学は(否定)神学的な感じだ。 サバルタン(聞き取ってもらえない人〜もの)が仮りに真理を所有していたなら、それは〈伝達不能な真理〉であるだろう。サバルタンと名付けられた人が遠くから日本にきて、語り始めるたとしても、その言葉は聞き取ることができず、その不自然さにどうしても翻訳者が誤訳をしているとしかおもえないかもしれない。真理は彼女/彼の無意識のうちに残存したままでいる。で言葉による理性による伝達には失敗してもなお、それ(目に見えない真理)が物事を変形させ、働きかけ、またこれに働かせ、物事を変容していくことがある。プラグマティックに翻訳すればそういう話だ。

考えをまとめたり、仕事をしたり、書きものをしていて、公共空間、公共の場にあえて何かしらの「真実」を示したいと思ったときには、この世界にあるどんな力だろうと、私の邪魔だてをすることはできません。これは勇気があるとかないとかの話ではありません。たとえいまだ世に入れられてはいないとしても、「真」なる仕方で何かを発言したり思索せねばならぬと考えるときは、世界中のどんな権能であれ私の意思をくじくことはできないのです。こうしたものを私は欲動と呼びます。この欲動のせいで当然のごとく多くの敵ができました。他人ともめ事を起こしたこと
や、時には両義的な態度や、自己防衛的なアレルギーで過されたこと、さらには憎悪まで招いてきた原因はこれだと思います。

詩を語るとき、当の詩を破壊しないためには、ツェラーン自身の言うように、詩そのものがなおも自ら語りつづけるような仕方で語るべきです。〈それ〉がなおも語りつづけるように。私たちが詩を語るのは、当の詩に言葉を委ねるためでなくてはなりません
(略)
このことは実生活全般にわたってもあてはまります。私たちが語るのは、他者の言葉を聴こうとするがゆえにです。ひとは他者に言葉を委ねつつ語るべきなのではないでしょうか。リズムや時間の問題です。ひとり語りすぎたあげく、他者に沈黙を課したりしない、あまりに沈黙がちにならない。こうしたことはすべて他者との交渉のなかで実現されていくのです。(デリダ 74 同上)

突然日常生活の話がでてくるが、なるほどと思わされるのはさすがである。デリダはモテたみたいだからきっと聴くことは上手だったのでしょう。でも他者との間に〈傷を受けたまさにそのときに、ものを語りだす裂け目、裂開部〉を意識しながらなお、交渉していくというのはどうだろう、かなりしんどいような気もしますね。でも例えば自分が子供だった時とか自分が劣者だったときのことを考えると、無理なことではない。


歴史に置き換えて考えてみると「歴史を語るとき、当の歴史を破壊しないためには、歴史そのものがなおも自ら語りつづけるような仕方で語るべきです。〈それ〉がなおも語りつづけるように。私たちが歴史を語るのは、当の歴史に言葉を委ねるためでなくてはなりません。」となる。南京大虐殺は、大きなスキャンダラスなできごとなので、ヒューマニスト反帝国主義者、そして中国ナショナリストなどが自分の原理にしようとやってくる。そうした簒奪に抗しつつなお真理を求めること。それが、ちんけな反反日主義者の言説に抗する最良の道でもある。

「絶対的真実はないと主張する」ことの含意

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。
東浩紀
http://www.hirokiazuma.com/archives/000466.html


ポ〜モ、ポモポモ、デリダの子・・・といった替え歌までできているようで、それはデリダが可哀想だろう!
南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に場所を与える必要」という発想は、デリダの上記引用からはでてこないことは明らかですね。
それよりも、
どんな場合にも死者は話さないのであってその絶対性にぶつからない範囲で語ろうとすると、(東浩紀)のようなどうしようもない言説に転落してしまう危険があるんだよ、みたいなことをいいそうだ。
(デリディアンとしてこんなことは言いたくないけど)というセリフがあって、東氏は今も自分をデリディアンと言っているようだが、デリダについて本を書けばデリディアンだとはならないだろう。*1

*1:マルクスについて本を書いたからといってマルクス主義者にはならないように