松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

その不確定さの発生する場所から尖端に至る過程で交差する問題

 この文章より一年半前にかいた「〈第n論文〉に関する諸註」との連続性および飛躍の問題がある。「〈第n論文〉に関する諸註」が自分の研究領域の表現を総括することによって何かを語ろうとしているのに対し、いまかこうとするのは、その後の過程を基本的に動かしている生活の場、とくに労働の場において、いや応なしに接触する不確定な表現を総括することである。ここから何を開始するかは不確定であるにしても、その不確定さの発生する場所から尖端に至る過程で交差する問題は、極めて多岐にわたる。それは〈……〉のむこうの全てだといってもよい位である。その領域に突入するのは、やりたいことであり、やらねばならないことでもある。そして、この二つが一致するのは、白昼のように暗い季節には大変めずらしい現象である。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

 わたしは生活しているつまり、いや応なしに接触する人やものに対して軋轢しとまどい愛着している。これを考えようとしても漠然としすぎていて何をどうすれば良いのか分からない。いくつもの条件を(暗黙のうちに)満たしている必要があるのだと思う。不確定なものをそれでも何かがそこにあると感受することすら、わたしたちにはひどく難しいことだ。わたしたちは普通考えられている以上に仕事を通して世界を見ている。つまりあらかじめ自分の身についた問題意識で肯定的であれ否定的であれ対応していく必要のない物事は、一瞬異和感があったとしてもそれ以上それについて考えることができず、無視される。
 一瞬気になったものごとを言葉で構成された表現としてとらえる、そしてそれを転記してみる、というのが松下がここでやったことである。それがどうした。主題のはっきりしない落書きは十個集まろうと主題のはっきりしない落書きの連鎖に過ぎない。文学に転化するわけではない。それはそのとおりで松下はそんなことを考えていたわけではない。自分でも予想外なことであっただろうが松下はここで何かの〈初まり〉に出会って、驚いている。
 「みえない関係が みえ始めたとき、かれらは深く訣別している。」(吉本隆明「少年期」)というフレーズは当時広く親しまれていた。この文に逆向する形で、〈関係〉というよりもっと軽く不確定な表現たちに目を向けたとき、松下は学生たちそして彼らの背後にある全世界に対する愛を不可避的に発見してしまった。

学力テストを実施する役目は終わったと思う。

大分県教委の体たらくなんて日教組ですよ。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になるのですよ。だから大分県の学力は低いんだよ。私はなぜ全国学力テストを提唱したかと言えば、日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったから。現にそうだよ。だから学力テストを実施する役目は終わったと思う。
中山成彬

 この発言に批判があるようだが、「学力テストを実施する役目は終わった」についてはどうなのか?
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080918#p1 でも書いたのだが、
「1位 秋田県 77.2点 2位 福井県 77.1点 云々という「結果」」に何か意味があるのか。これが県単位のように大きな規模でなく学校単位でも同じである。

 各学校レベルでも同じことが言えます。よくある話ですが、高校生なりが"ブランド"を認められている学校に入ったとしてもそこでも一位から最下位までいるのです。それを忘れて、いい学校に入ってどうのこうの言う大人がいるから妙な話になるのだと思います。下位校のトップが進学校のどべの子より成績がいいなんてことはあたりまえにあるはずなのに、です。
 だからこのテストは、その結果をどう捉えどう活かすかを各学校に問う「学校へのテスト」にもなっているんだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080911#p1

 その結果をどう捉えどう活かすかを各学校に問ってどういうことなのでしょうか?id:uumin3さんは 例えばどう活かすことができると考えておられるのでしょうか。
わたしには全く分からないのですがねえ。
確かに低レベルに位置付けられた学校にはプレッシャーが掛かるだろう。ではプレッシャーがなければその学校はそれまで努力していなかったのだろうか。また高いレベルに位置付けられた学校は努力しなくてよいのだろうか?

子どもの学力について把握したければ、クラスごと、学校ごとの学力テストを実施し、それを分析し、対策を講じること。それが基本だ。
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080927/1222446205

 学校ごとに目の前の生徒の顔を見ながら先生は努力しているのであってその努力を支援することが、学力向上への支援になる。
 学力が向上しないのは勉強が生徒にとって楽しくないからである。*1学力*2という結果のために努力する生徒もいるがむしろ少数派であろう。学力だけを求める教育ではなく、教育内容自体、授業自体が面白く魅力的である学校を目指すこともできるし、その方が結果的には学力につながると思う。
 「学力テストを実施し続ける」ことに意味はない。*3これに反対の方はぜひご意見をお聞かせくださいませ!

*1:というかいまの中高生は学問とか自分の将来とかに関して驚くほどニヒリスティクである。そういうことも知らずに教育を語って欲しくない。

*2:とか進学

*3:ベネッセとかの利権以外には

つまらないテストで競い合う心を育てることなどできない

 対象学年の全員を対象とする全国学力調査のそもそもの発端は04年11月。当時文科相だった中山氏自身が改革私案「甦(よみがえ)れ、日本!」で導入を表明したことだった。当時は目的について「競い合う心や切磋琢磨(せっさたくま)する精神が必要」と説いていた。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200809260383.html

 新潟県の小学校教諭は、調査に疑問を感じながらも、学力向上に生かそうと励んだ。「地域で成績の差は確かにあるけど、それを改善するのが調査の目的だったはずだ。頑張ってきたのに、あの一言はないだろう」と憤る。

 沖縄県の小学校教諭は、調査の前、放課後の補習に追われた。テストのための勉強で、とても児童の学力がついているとは思えなかった。「やると言い出した本人がもう必要ないと気づくくらい無駄なテストなのだから、早くやめた方がいい」
(同上)

「戦後教育が悪かった」論@中山成彬

9月25日、国交相に前日就任したばかりの中山成彬は、報道各社のインタビューで、所轄する成田空港問題について「ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、公共の精神というか公のためにはある程度自分を犠牲にしてでも捨ててもというのがなくて、なかなか空港拡張もできなかった」(朝日新聞報道)と放言したという。断じて許せない!
http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-3f4f.html

 そもそも冨里空港案が3年にわたる冨里農民の怒りの声に破産し、1966年6月、成田空港案に行きついた佐藤政府が検討を開始し、何の地元への説明をすることもなく、公聴会や説明会といった一切の手続きもすることなく、わずか2週間で閣議決定をして、三里塚農民に一方的に「農地をよこせ」「出て行け」と「国策」を理由に突きつけてきたのはではないか! 佐藤栄作、日本政府のこのやり方自体が一切の元凶ではなかったのか。だからこそ政府自体が「ボタンの掛け違い」と言ったのではないのか。これのどこが「公共の精神」か! 冨里と違って三里塚の農民は開拓農民だから貧しいと機動隊の暴力と札束を投入して、43年間も脅し続けてきたのが何が「公」「公共の精神」か! 
(同上)

国交省の仕事は初めてでよく分からなかった。その後、事務方から、成田については歴史的な経緯について説明を受けた。昭和41年の閣議決定移行、十分に住民の理解を得ることなく建設を進めた。賛成派と反対派の運動が激化する中で過激派の介入を許し住民に迷惑をかけた。国としては円卓会議などで解決に努力してきた。空港と地域の共生の元に、平成22年3月には平行滑走路を北伸して2500メートルの滑走路になる。これらを踏まえて、昨日の発言は撤回した」中山成彬
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080926/plc0809261257011-n1.htm

 札束と交換に土地を手放した人を批判するのが、「ごね得」批判である。考えてみるとそれは、札束と交換に土地を手放した人を批判し死んでも農地を手放さないとする「過激派」を支援する発言になる。過激派との緊張関係のなかでいわば札束を唯一の武器に地元の農地を買収するという仕事に苦労してきた国交省の下っ端役人に敵対することになる。

国民全体の利益が最終審級であることは常識か

 まじめな顔をしてこういうことを普通にいっている人は巷にはあちこちに存在する。国民全体の利益のためには自分の利益を主張することは控えるべきだという。
http://d.hatena.ne.jp/nsw2072/20080926#p2

 あーそうなのか。わたしは「ゴネ得」を批判することは、当局から金を貰うことを拒否すべきとする過激派の発想と同じだと思ったが、そうではない発想のし方というものが、世の中ではむしろ一般的なのであろう。これはわたしにとっては盲点であった。
 国策に反対すること自体がいけないことなのだ、と。うーん。人権は公共の福祉に反しない限りしか認めないと憲法にも書いてあるだろう?*1

*1:この解釈はおかしい。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。第12条 12条だけ読んではだめで先に11条がある。