松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「名無し」主義の弊害を越えるために

 2ちゃんねる的なものとは何か、それに対する別の選択肢は何か?ということについては次のessaさんの論考が参考になる。

http://d.hatena.ne.jp/essa/20071224/p1
背後に超越的存在を必要とするとしたら、「法」も「空気」も大して違いはない。根本的な違いは何かと言うと、「法」はひとつひとつの言葉にURLをつけることを要求するということだ。
インターネットのはるか前から、聖書の言葉には一文ごとに番号が振ってある。言葉に一意な番号をつけて後で参照可能にするというのは、「法」の精神の根本ではないかと思う。後で参照できるから、言葉が相互にリンクされストックとなる。「水に流す」ことができないように言葉を管理するのが「法」の根本だ。
2ちゃんねるニコニコ動画では、言葉にURLがつかない。2ちゃんねるのレスには一件ごとのURLがあるが、その効力を打ち消すように、2ちゃんねるの言葉はリンクでなくコピペされて広まっていく。
ひろゆきという天皇に似た存在の臨在の元で言葉を蓄積せず流していくというスタイルが、日本人が古代から持つ感性にピッタリあっていたので、この両サービスは広まったのだと私は思う。
それと対照的に、言葉の一つ一つにURLをふり蓄積していくのがブログであるが、そのポイントについて徹底しているのが「はてな」である。
はてな」のサービスでは、言葉の一つ一つに一意のURLがつけられ、その多くはURLによって公的に参照可能である。

これを参考に考えていくと次のような原則が必要なのではないかと思われる。

  1. 言葉の一つ一つに一意のURLがつけられ、その多くはURLによって公的に参照可能である。
  2. 言葉の一つ一つに一意の作者(id)がつけられ、反論に対し応答可能性があること。
  3. 発言の削除訂正は作者によっても無条件に行いえないこと。

実名原理主義者は、作者の一意性に拘っている。たしかにななしさんがはびこれば議論はできない。しかしそれはななし/固定ハンドルの問題であり、戸籍名採用のメリットにはならない。
自己の発言に対し責任を持って応答していき、自己の固定化された主張に固着し相手を叩くことに熱中するのではなく訂正に対して開かれた身体を維持していくことが望まれる。*1

討論は困難なことである。前提として大事なことは、討論を進めていくことにお互いが熱意をもっているということだ。実際討論によって何かが得られるという実感をみんながもっていなければ討論など成立するはずもない。
実際、討論とはかなり違ったものだが、2ちゃんねるで行われていることも差異のゲームには違いない。どのような形であれ人は言説というゲームを愛好する存在であるということは確認されないければならない。ゲームを愛好という絶対的条件が先にあり、それを支配しているルールは後から決定される。いったん成立したルールは簡単に変えられないものであるが、それでも長い時間帯においてはかなり変化していく。


今回の小谷野さんによる「戸籍名暴露事件」は、2ちゃんねる的匿名主義に対する過激な反動である、と考えることができる。「空気読め」という命令に付いての言説が氾濫しつつあるのは、それを自明化していた2ちゃんねるの状況がすでに変わりつつあることだと理解しうるかもしれない。
essaさんの発言とは違って、hatena的なものは現状としては、2ちゃんねる的なものに対峙するほどのルールの共有を獲得していないように思える。プログラマーなどにとっては、オープンソース運動への加担やそれに関わる言説などでは、すでに、2ちゃんねるとは異質なルールのあり方を充分実現し得ていると思われるのかもしれない。おそらくそうなのだろうが、それらはいまだ一般的ルールとして啓蒙されていないのではないか。


そこで、2ちゃんねるやhatenaに比べれば狭い言説空間だったかもしれないが、2ちゃんねるとはまったく異質なルールが支配し、自らのルール形成にみなが積極的に参加していた特異な文化としてFSHISOというものを知る意味はけっこうあるのではないかと思ったわけである。
わたしがうまく紹介できればよいのだが紹介は苦手なのでうまくいく自信はない。

*1:ただまあ相手の質が劣悪だとそれにどうしてもひきずられるが

プライバシーの暴露は重罪

kazhik 2007/12/25 19:16 fshisoの話題が出てきたのでちょっとだけコメントさせてください。私はfshiso出身で、『反論』について書評を書いたことがあります。(http://kazhik.net/soc/?p=10)
noharra さんが解説している通り、fshisoではプライバシーの暴露は重罪でした。運営に批判的だった私もその点だけは支持していました。しかし、実名より匿名のほうが「理性の公共的使用につながりやすい」とまで言えるとは思えません。ハンドル名だけで実名を公開しない場合、その人の発言は実社会での地位とは関係なくなりますが、ネット社会で特定のハンドル名が名声を獲得する場合もありますし、逆にその名誉が毀損される場合もあります。fshisoの場合、プライバシーの侵害はたしかにありませんでしたが、名誉棄損は日常茶飯事でした。そもそもfshisoの運営側は名誉棄損訴訟で負けた側、つまり結果として名誉棄損を擁護した側です。プライバシーの問題も実名/匿名の問題も、「理性の公共的使用」という観点からはあまりにレベルの低い問題だと言えます。

FSHISO出身者からコメントいただいた。うれしい。kazhikさんありがとう。

kazhikさん コメントありがとうございます。

kazhikさんがFSHISO出身とは知りませんでした。いつごろ参加されていたのですか。「運営」のあり方も時期によってずいぶん違っていたようなので。私が参加したのはシスオペがWAKEIさんの最後のころで、抜けたのは2001年の半ばころです。
「実名より匿名のほうが「理性の公共的使用につながりやすい」とまで言えるとは思えません。」そうですね。

言葉の一つ一つに一意の作者(id)がつけられ、まともな反論に対しては応答がなされるべきという常識が成立していること。
発言の削除訂正は作者によっても無条件に行いえないこと。

といった条件は「理性の公共的使用につながりやすい」と評価してもいいのではないでしょうか。
 アゴーンと言えばもっともらしいが実際はたんなる喧嘩口論が延々と続くだけと言えるようなものが多かったことも確かでしょう。
 ただそこでは、「討論の追求」といった価値観については誰も疑わず強く共有されていたという感じがします。そのような常識とそれから討論への熱意はやはり振り返って確認するに足りるものだと思います。

ネット社会で特定のハンドル名が名声を獲得する場合もありますし、逆にその名誉が毀損される場合もあります。fshisoの場合、プライバシーの侵害はたしかにありませんでしたが、名誉棄損は日常茶飯事でした。

ネット社会だけ考えれば「名誉棄損」というのはあまり成り立たないと思います。*1 馬鹿と書かれれば馬鹿と書き返せば良い、で済むと認識すれば「名誉棄損」という必要は狭まりますよね。

fshisoの運営側は名誉棄損訴訟で負けた

というのは地裁判決であり、高裁判決で覆りました。
参考 http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000202#p1

(http://kazhik.net/soc/?p=10)
いまから読んでみます。

なお、朝鮮民主主義研究センターのサイトで、リムジンガン日本語版のウェブサイトの開設を知りました。kazhikさんが強調されるとおりこれは画期的な企画だと思いました。12/27付けでkazhikさんの文章も借り宣伝させてもらうことにしました。
北朝鮮に付いてはふつうに発言しようとするだけで余計な苦労が必要という気がします。「弯曲」を越えて発言を持続されていることに大きな敬意を持っております。ありがとうございます。

*1:厳密には成り立たないわけではないが。

現代思想フォーラムはどんな思想を産み出したのか?

と題するkazhikさんの文章を読んでみた。

ローカル・ルールとは

『反論』の著者たちが繰り返し強調しているのは「自己責任原則」である。この原則は現代思想フォーラムのローカル・ルールとして明文化され、彼らによって繰り返し自賛されている。

従来のメディアとは違い、ネットワーク社会では「反論権」ははじめから保証されている。名誉毀損にあたる発言があったとしても被害者がその場で反論することによって名誉の回復をはかることができる。管理者が介入する必要はないし、するべきでもない。ただしプライバシーを侵害するおそれのある発言に関しては、反論しても被害の拡大を防げないため、発見次第管理者がただちに削除する。これがローカル・ルールの基本的な考え方である。

私はこの基本思想そのものには異論がなかったし、現在もない。パソコン通信やインターネットを従来のメディアの延長線上で捉え、同じ原則での統制を主張する論者は現在でも少なくないし、97年の東京地裁判決もそういう立場から下されているが、それらに対してこの「言論には言論で対抗せよ」という原則を主張していくことは是非とも必要である。
http://kazhik.net/soc/?p=10

21世紀のネット状況には公共性が成立していない。

しかし、誰もが管理者になれるという時代の到来は、現代思想フォーラムでかつて問われた問題を少しも解決していない。Web上のあちこちにメーリングリスト掲示板が乱立した結果、異質な他者同士が一同に会する場が成立しにくくなり、「共感のサークル」ばかりができているというのが現在の状況だからだ。現代思想フォーラム程度の公共性すら成立しにくいので、ローカル・ルールも必要とされない。掲示板で何かトラブルが起これば、原因となった者を排除するか、または掲示板そのものを廃止することで終わってしまう場合が多い。これはある意味でCookie-LEE事件以前の状況に戻ってしまったのだと言ってもよい。
http://kazhik.net/soc/?p=10

以上の二点について全く同感である。
この文章は2000年に書かれたもののようだ。考えてみるとおそらく2004年4月にいわゆる「イラク三馬鹿」事件が起こって2ちゃんねる的言説、行動様式がネット発言者の大部分に感染するに至った。公共性という座標から考えた時に悪くしかなっていないわけである。

原告側のCookie氏が管理責任を追及したことの反動として「自己責任」や「言論の自由」ばかりを一面的に強調した運営方針は、実際には現代思想フォーラムの議論の質を低下させる役割を果たしていた。
・・・
これを読むと現代思想フォーラムに罵倒表現があふれたのはほんの一瞬だったかのようだ。しかし、私がアクセスしていた全期間を通じて、冷静な議論とは無縁の罵詈雑言であふれかえっていたのが現代思想フォーラムだった。
・・・
彼女らが主張するのは言論の内容を統制することだが、私が認めるのは討論の場を維持するための統制であり、場を破壊しようとする確信犯に対する統制である。しかし当時の運営スタッフにはこのような区別はなかった。

FSHISO運営スタッフに対するkazhikさんの違和感などの部分である。まあ確かにそのとおりなのでFSHISOを美化する必要はない。ただまあ「討論の場を維持するための統制であり、場を破壊しようとする確信犯に対する統制」というものをどうやって実現するかが問題であるわけです。SYSOPが啓蒙専制君主のように権力行使することで統制を実現すべきと、kazhikさんは考えておられるのか。ローカルルールというのは、某Cさんが訴訟を起こすだろうという予測の基にSYSOP(とニフティ)の責任回避のために作られたという側面も強いらしい。WAKEIさんの本来の性格はどうあれ裁判が起こってしまった以上、「自己責任」強調路線でいくしかなかったのは当然であったでしょう。

名誉棄損について

はわたし勉強不足なのですが、下記のサイトでは、
「「匿名掲示板の発言者同士による名誉毀損裁判は成立しない」ということになる。」と断言している。

 では、「法律に書いてあるんだから、他人の悪口を言えば罰せられる!」というものかと言えばそうでもない。名誉毀損が成立するためには、いくつかの条件がある。以下は、ネット掲示板での名誉毀損関連訴訟の草分けとして有名な、ニフティ裁判での裁判所判断(これはネット訴訟を考える上で非常に有名な判例で、法学生の論文のテーマにもよく見受けられる)

1. 刑231/刑230/民709/民710に触れる行為(=誹謗中傷)があった
2. (1)を受けた原告(=この場合は被害者と同義とする)が社会的信用を失い損害を受けた
3. (1)と原告の被害・損害の間に関連性が証明された
4. (1)を受けた際に、原告は反論できない環境にあった
http://hunbook.hp.infoseek.co.jp/column/meiyokison.htm