松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

〈アラハバキ神〉とは誰か?

安倍晋三氏が日本の首相になったようだ。

http://d.hatena.ne.jp/kanjisin/20060927
2006-09-27
ところで、「安倍」という名が気になった。
なんと「安倍宗任の子孫」と一族に伝わっているそうだ。

kanjisinさんは意外な所に目を付けられた。
安倍氏は古代末期東北地方の土着豪族で蝦夷首長家の子孫。」だそうだが、
前九年の役を起こし「(安倍)宗任(むねとう)は捕虜になり、頼義に連れられ伊予次いで大宰府に流される(『日本史大事典』平凡社)。」そしてその後、「中世に中国などとの交易をした武装集団松浦党の祖となったという伝承がある。」というわけで、水軍根拠地である福岡県宗像大嶋の周辺に子孫が残っていても不思議はない、という話になる。
参考http://d.hatena.ne.jp/kanjisin/20060927#p1

ところで、安倍氏の守護神は「あらはばき神」であるとされる。岩手県奥州市衣川区にある磐神社に祀られているらしい。
http://www.ne.jp/asahi/asamasa/shako/iwate/iwa.html

 「おお一っ」、境内に一歩足を踏み入れた我々は、その景観に思わず捻った。正に巨石の社、その巨石の上に鳥居が立てられている。この異色な空間に圧倒され、しはし立ち尽くし、言葉を失っていた二人であったが、ふと我に帰り写真を撮りまくった。「すばらしい!」、夕暮に浮かび上がる巨石の数々、凄まじい光景である。ある巨石の横には井戸のような穴が存在した。また、洞窟を塞いだような部分も見られた。以前、和田さんが遺物を発掘していたのは、あるいは此処かもしれない。 そして、社の横の墓石には、「安倍氏、安東氏、秋田氏、朝夷氏祖先菩提」と記されていた。また、その脇に立てられた卒塔婆には、「荒覇吐王安日彦命 長脛彦命霊之標」とあった。これらは近世に建てられたものであろうが、古代史ファンにとってはたまらない光景である。
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/touhoku-2.htm


さてここでわたしたち(広い意味の)オタクがそこに回帰すべき〈アラハバキ神〉とは誰か?と、問わなければならないわけだ。その本体は不明である。ただし安倍氏の祖先神といったちんけな物でないもっと広大なものであるのは確かだろう。

アソベ・ツボケ族以来の石神信仰を引き継いだもの

荒吐神とその信仰については「津軽無常抄第三」に、初期的な形や姿が記されている。

「……津保化(つぼけ)一族はかくして天然を尊び、その祭祀は今に遺れる石神信仰なり。
たとへば海辺の珍石を、川辺の珍石を神棚に祀りて是を神とせるは今尚遺れる信仰なり。
山川海辺の石を形像より珍石は神よりの授けものとして崇(おが)むは津保化一族の習へなり。
また亦土をねり、よき人形を造りて焼き固めて亡き親を偲(しの)ぶ崇行もあり。
これをイシカホノリと称しける……」

ここで、イシカホノリ(石神)信仰が、古代信仰のルーツであるアニミズム的色彩の濃いものであることがわかる。
http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/arahabaki.htm#2
謎の神 アラハバキ


 天皇家の祖であるアマテラスという一者から流出してくるかのように語られるのが皇国史観である。わたしたちはそれに対抗するために、安倍氏にもゆかりの深い縄文神“あらはばき”神を押し立てることができる。

神はすべてアマテラスに吸収される?

 日本人の原宗教といったものがどこにあるのか?という問いは、何処にあるか?を問うことによって、有るのか無いのか?という問いを隠蔽する間違った問いであると言える。だがしかし、そうした問いにしばしば人は引きつけられる。それに触れてわたしの書いた文章は下記。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p1

 日本人の原宗教といったものには様々な流れがあるが、それら全てを総大成する形で、明治時代に(奇妙なことに非宗教化されて)国家神道となった。でそれは昭和の時代にウルトラ化し戦争への国家総動員態勢を作っていった。で戦後ぽしゃっていたのだが、最近性懲りもなく復活をはかっている。
 で、その一つのモードが、硬直した国家神道的なものから遠く離れたところに、「縄文」の日本心性といったものを捏造し祭り上げるといったもの、であるらしい。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040118#p1 で引用したのは西尾幹二のこういう文章。
「日本の神々はきわめて具体的な事物や現象において考えられるもので、抽象的理念的な存在ではない」「これは通例アニミズムと呼ばれるものに等しい」 アニミズムはいわゆる未開といわれる地域どこにでもあるもので珍重するに及ばないと思う。しかし西尾氏にとってはそうではないようだ。

野原もまたさっき書いたところで、アニミズムを珍重している。そうしたアニミズムは、日本主義の外側にある物、日本主義とはむしろ反する物だと思ったからである。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p1

「あばはらき」違うか「あらはばき神」も同じである。「あらはばき神」は日本というエリアでアマテラスから最も遠い出自を持つもののようだが、必ずしも敵対しているわけではない。


「あらはばき神」を珍重することは必ず皇国主義者を利することになる。という主張があるように思う。うまく反論できなかったがそれは違うと私は思っている。
(10/1追記)

ゆく末たのもしからずおぼしめす

ゆく末たのもしからずおぼしめすはいかに。

というのは平家物語の巻7「主上都落」。主上安徳天皇)が平家とともに都落するならついていくしかないかと旅支度して家を出た摂政殿(藤原基通)の牛車の前を、「びんづら結ひたる童子」がつっと走りとおる。春日明神の化身である。次の歌を残して消える。

いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくを ただ春の日にまかせてや見ん

平家について行けとも行くなとも言っていない。しかし何かを告げるためにわざわざ神が降臨されたわけである。
摂政が「将来は頼もしくなく思われるがどうか」とお供の者に告げると、お供の者は御牛飼いに目配せする、牛飼いもすぐに察して御車を返す。それからはもう「とぶが如く」に走る。
という話しである。(あたりまえの話だが、「都落」には摂政だけでなくお供の者も牛飼いも不安を感じていた、その一瞬の不安の伝導といったものがよく出ているのが面白い。)
で、教育改革と憲法改正安倍内閣のゆく末を頼もしく思っている人などいるのだろうか? というのが言いたいこと。