松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

プロジェクト富村順一

富村順一氏の『わんがうまりあ沖縄』という本をだいぶ前に古本屋で200円で購入していたが読んでいなかった。
このたび少しだけ読んでみて、感動した。
p117-138 の「山野彷徨 日本軍米軍」という少年時代の沖縄戦体験談のところが特に。

ちょっと紹介してみたい。

http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b/503-8706931-3386303?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%95x%91%BA%8F%87%88%EA&Go.x=0&Go.y=0&Go=Go
Amazon.co.jpの本: 富村順一

「山野彷徨 日本軍米軍」

山野彷徨 日本軍米軍

 私達の家族は全員で十三人でした。私は学校も行かず、古里から十二キロ沖に有る伊江島の国場組で仕事して居りました。現在の沖縄代表、国会議員の国場幸昌の兄幸太郎が組長でした。さて、国場組が日本軍と一体となり、我々沖縄人労働者や朝鮮人軍属を牛や馬と同様にあつかい、部隊長達にいい顔をして居りました。国場組の事は、別に書く事に致します。私が伊江島を引きあげたのは、昭和十九年の八月末か九月の始めでした。伊江島から本部の古里に帰り、一月ほろして、大空襲が有り、私達の部落、渡久地が六分の一ほろのこされて街が皆やけました。街の真中には市場が有りましたが、市場の空家に日本軍の弾薬を入れて有りましたから、空襲の時に弾薬に火がつき、大爆発をおこし、危険ですから、火も消すことが出来ず、街が皆やけたのです。運良く私達の家はやけず、その後他の家テイより心配する事もなく日常生活をして居りましたが、何分にアメリカ軍の上陸の話も軍人や大人達はして居りますから、私達家族もいつ何時でも、親類の家に逃げる準備して有りました。
 二十年の三月二十四、四日頃から、上陸の大空襲が有りました。故に私達家族十三人は、オバさん、母の姉宅えヒナン致しました。長男、勇の親子七人、七才を頭に五人の子供でした。オバさんの家に行きますと、オバさんの家族と共に、一つの屋ねの下で生活する様になりましたが、二、三日すると上本部の方で金持の方がヒナンして来たので、私達家族が居る家を空けて、他人で有るお金持を良い場所に入れて、私達をヤギ小屋にうつりなさいと言って居りました。
 母はぶつぶつ言へは居りましたが、びんぼうの悲しさと思ったのか、不満そうな顔はして居りましたが、ヤギ小屋にうつりました。ヤギ小屋と言ても、半分にヤギ、半分で私達十三人の家族が生活するわけです。ねて居りましても、ヤギの小便くさく、同時にゴザが有りませんから、草の土の上にしき、二、三日生活する内に、ひにくれモノで有る私は、親類の人達に反感を持つ様に成り、毎日親類の家で不満を持ちいらいらして居るより、どこか良い場所は無いかと考えて居りまと、ふと、部落の近くにいるライ病の事を思い出したのです。
(つづく)

p117-118 富村順一『わんがうまりあ沖縄』柘植書房 1972年

以下、原文をひたすらコピペしていくというのが野原流なんですが
今回は要約で続けていくことにします。
このテキストは全文を読むの価値があると思う。もしテキストを入手できたらぜひ読んで欲しい。

 沖縄でライ病の方は屋我地島に収容される。そのライ病の方はそこに行くように何度警察官に言われても全く言うことを聞かず村里離れた家で生活していた。私は(学校を)小学校3年生で止めて馬の草刈りをしていたりしたがそのとき、ライ病のおじさんと仲良しになった。その家の木にメジロカゴをかけてメジロを取って遊んでいた。
 「君はなぜ学校に行か無いでメジロばかり取っているのか、大人になると学問が大切だから、学校へ行って勉強する様に私に何度となくススめて下さいました。」他の大人も「学校に行け」と言ったでしょうに、そのおじさんのセリフだけを覚えているのは、そのおじさんだけは単に規範を語るのではなく少年の核心に何かを届けようとしたからでしょう。「君はなぜ学校に行か無いでメジロばかり取っているのか」というフレーズにつげ義春風のユーモアを感じます。
 ともかくそんなふうに顔なじみになっていたので、彼の家のことを思い出し、おばさんの家にヒナンしてから、六、七日目に一人で山を下らり町へ行ってみる。家という家は全くない。(米軍の砲撃で破壊されたという意味なのであろう。)「夜でしたので、一人で歌を歌いながら、ライ病のおじさんの家に行くと、おじさんがびくりとした様子で、おじさんは私を見るなり、バカアメリカ軍が二日前に上陸しているだぞ、今頃一人で何をして町をぶらぶらしてあるくか、と言て居りました。」p119
 「二人で色々話す最中も頭の上は照明弾が上がり、休むひまなく砲弾の音が聞こえて居りました。多分アメリカの軍艦の艦砲射撃だたと思います。」
 真っ暗な夜だから心細く歌を歌いながら夜道を歩く。しかしそれは村を全滅させるほどの砲弾が降り注いだ直後だったのだ。米軍の前線と日本軍の前線の間にいくらかの隙間があり、そこで動くものは動物であってもすぐに撃たれる、最も危険なエリアである。しかし同時にそこは米軍のルールも日本軍のルールも存在しない奇妙なエアポケットであり、ある場合には言われているほど危険ではなくけっこう安全だったりする。この富村手記の眼目はそのエアポケット体験である。
 (9/6記)
つづく

つづき (付、目取真俊の父親の話)(9/7記)

 で、おじさんに出会って「オバさん達が、他人のお金持ちは良い所にねかし、親類である私達をヤギ小屋にねかした事を話す」と「我が事の様におじさんは怒りをぶちまけて」p119 くれる。「三、四時間話している内に砲弾の音もなくなりますと、おじさんは想い出した様に、そうだ、たしか仲宗根の兄さんがハイ病で一人逃げる事も出きず、部落近くの壕にいるに間違い無いから、元気か見てくる」という話を始める。順一少年(当時一五歳)は(その場所は知っている)おじさんなら行き帰り二時間もかかるけど私なら三〇分もあると帰って来ることができる、と言うと「ざあ見てこい」ということになる。
「私はおじさんの家を出ると、山の中の道を手さぐりしながら、仲宗根さんの壕まで行きますと、仲宗根さんは壕の中でブタニクをたいて居りました。」ライ病のおじさんからの“良かったらこちらにきたらどうだ”という伝言を伝える。「坂道から行きたいと思っても行くことができない、と言って一人はさびしいが、しかたが無いと言って」いた。壕の中には米が沢山ある。仲宗根さんは米は持てるだけ上げるから持っていきなさいと言ってくれる。「ブリキカンのふたつに入でて棒で水でもはこぶ様にして山の上に有るおじさんの家」に帰る。おじさんは米を持ってきたのを見て、すぐに(明るくならにうちに)お母さんの所へ行け(帰れ)とせき立てる。
(帰ると)「母はびっくりした様子で今まで二日間どこで何をしてぶらぶらしているのか、戦争と言う事を忘れているので無いかとぶつぶつ言って居りましたが、本来私は人の言う事にあまり耳をかたむけ無い少年でしたから、何をいつまでもぶつぶつ言って居るかと、反対に家族をおこりました。」p121 母の怒りはもっともであるが、“戦争というもの”を知り逃げ延びることができたのは結果的には順一の方であったのは疑えない。(お母さんも幸い生きのびることはできたようだが)軍や役所の命令を聞いていた方が安全だというのは通常時には言えかもしれない。しかし、敗戦という〈時〉にはその常識を自ら解体し自立思想を身につけなければ逆にあぶない。「本来私は人の言う事にあまり耳をかたむけ無い少年」で有るほうが良いこともあるのだ。
二日ほど家族と共に居たが、またふんがいすることが起き、ライ病のおじさんの家へ行くといって山を下りる。すると一二、三人の日本軍に出会う。(この時点で日本軍はすでに散発的行動しかできなくなっていたということだろうか。)順一少年は軍人に「安全で行ける山のふもとを道あんないする様に」言われる。しかたなく湾の上の山まであんないする。「隊長だしい日本軍が私の頭をなれながら、耳元に口をつけて、有難とう、君は帰って良いから」と言って放してくれる。彼らは決死のキリコミに行ったのだ。おじさんの家へ行きしばらくすると「ものすごい鉄砲や他のばくはつの音がして、照明弾が上がり、真昼の様に明るくなて居りました。」
日本軍との出会いと別れである。ここで丁度別の本の話を思い出した。小説家目取真俊の父親は一九三〇年九月生。順一は同年五月生と同じ歳である。目取真俊の父親は県立三中在学中に(まだ一四歳なのに)鉄血勤王隊として戦争に動員される。
「当時、沖縄島北部は宇土部隊(独立混成第44旅団第2歩兵隊)が配置されていて、三中の学徒隊はその指揮下に入り、本部(もとぶ)半島の中央にある八重岳(やえだけ)や乙羽岳(おつぱだけ)などの山岳部で戦闘に参加します」*1
http://map.yahoo.co.jp/address?ac=47308
 順一の方は「国頭郡本部町東136-1」に生まれるとありヤフーマップで見ると本部町役場のそばのようだ。八重岳の北西三キロほどの所だ。偶然だが二人は生年だけでなく地理的にも重なっている。
「北部地域は戦闘が早く終わった」ということになっているらしい。日本軍としての組織が解体したとしても(日本兵は降伏しないので)敗残兵は残る。で皮肉なことにこの敗残兵たちは地元民に対し略奪や暴行をする加害者となる。*2目取真俊の父親は仲間とはぐれるが、また五人の日本兵と出会い一緒に暮らすことになる。米軍から隠れないといけない兵士たちに代わり体の小さな「父親」が(軍服でない服を手に入れ)民家を回り食料を調達する係りになる。このように兵隊と少年の関係は得てして一方的権力関係になる。少年は逃げ出すまでかなりの間兵隊たちのために危険を冒しつづけることになる。(それでも兵隊たちが少年にかんしゃなどしていなかったことが分かるエピソードがある)
「ライ病」と「ハイ病」の大人と対等の友人関係を作り上げた順一少年は、意図したわけではないが、兵隊という権力にさらわれる防波堤をも手に入れた事になる。

*1:p23『沖縄「戦後」ゼロ年』isbn:414088150X

*2:ときとして、あるいは「たいていの場合」

ライ病と山積みのカンズメ

前回、「有難とう、君は帰って良いから」と順一少年が隊長に言われたシーンで終わった。もう一人の少年*1の場合は、有り難うと言われることなく(逃げ出すまで)兵隊たちに搾取されつづけることになる。

おじさんの家に行くとおじさんはいなかった。しばらく待っていると急に沢山の人声がする。おじさんと仲宗根さん、それに中頭郡の言葉じゃないかとおもわれる言葉つきの四人家族が「一日ここにおいて下さい」と言っていた。おじさんは「いかなる事が有りましても、責任はご自分で取って下さるなら一日ぐらいは良い」と言っていた。おじさんという方はどんなときでも自分と相手との関係をみつめて丁寧に言葉にしていく方だったようだ。家族が三日間何も食べていないというので、肉みそとイモを出してあげた。明るくなっておじさんは「私はライ病ですが、皆さんはさしつかい有りませんか」と言うと親子はびっくりして顔を見合わせる。四人は家を出ようとする。その途端、七,八人のアメリカ兵が家を取り囲む。娘と母親は庭でかわるがわるアメリカ兵に犯される。「我々を殺しはしないとわかりひと安心は致しましたが、目の前で親子がかわるがわる暴行を受けるのを見て、その時の気持は、小生には筆で説明する事が出来ません。」アメリカ兵の立場から見たら彼らはキリコミ隊シンパの敵国人である。中国大陸での日本兵なら拷問〜殺してしまうということは充分あり得る。(アメリカ兵でもそうした場合はあっただろう。しかし、アメリカ軍には住民を降伏させ食料や薬を与えおとなしくさせるという方針がありそれを実行したというのは確かなことのようだ。中国大陸での日本軍はその点が弱く、だいたい食料をもってないから略奪するしかない、敵をどんどん増やしていたようだ。)
おじさんはあらためて順一に聞く「順一、おじさんはライ病なんだよ。カナはそれでも、おじさんたちと共に生活したいのか」。「ライ病は私に関係が無いからおじさんの家へおいて下さいと私はお願い致しました。」
「すると、仲宗根さんが、カナ*2、ライ病の方は死にはしないがハイ病は死ぬからライ病よりハイ病の方が悪い病気と話して居りました」*3
生きるといってもヤギ小屋でしか暮らせない、戦争などで不意に死ぬ可能性も充分ある、ライ病感染という遠い可能性を心配している場合ではない、理屈ではそうでも普通はなかなかそう考えることができないのに。なぜ順一はここで差別意識を捨てることができたのだろうか。
「もともとハンセン病は感染力の低い病気であり、日常生活で感染する可能性はほとんどない。」http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%F3%A5%BB%A5%F3%C9%C2
と現在はされているがそのような知識はなかったはずだ。だが順一にはできた。でいわばここからかれらは〈おかしな三人組〉を結成することになるわけだ。
「仲宗根さんは、ニクやおいしい食べ物を沢山食べて力をつけて置けば病気はうつらないから、うんとおいしい物を食べるようにしなさいと言って居りました。」p125
軍隊の経験もある仲宗根さんはそういう実に正しい助言をしてくれる。

アメリカは我々を殺さないから*4、ひとつ湾や渡久地の村を見に行こう」とおじさんは言う。「カナは家に居りなさい、おじさんたちは病人でもあるし又年寄りだから、大切にして世の中がどの様に変わるか見なくちゃいかん。」と順一は言われる。このセリフも哲学的に正しい。*5マサカズ(仲宗根さんの名前)は歩くのが遅いからと、結局一人で出かける。
 「二時間ほろおじさんは村を廻り、帰りに米軍のカンズメ、ビスケートなど色々物を持って帰って来ました。」食べようとすると「おじさんが、毒が入ているかしらぬから、おじさんが食べて何でもない時に食べなさい、と言って大きな口をあけましたから、わたしは肉らしい物をおじさんの口に入れる」・・・大丈夫そうだからカナも食べなさいと言っていた。
 「カンズメやビスケットなど山積みにして捨ててある」・・・「明日三人で取りに行く事に」決まる。p126 まあ今にして思えば猿の餌付けのようなもの、かもしれない。
 LALA物資のまずくてまずい脱脂粉乳を飲んで育った最後の世代であるわたしは(実は)。餌付けであろうがなかろうが食料は食料だと居直ることはできる。ただ圧倒的な米軍基地の負担を沖縄にだけ押しつけ、帝国主義本国の権力性に居直るのは正しくないと思う。
(つづく)

*1:目取真俊の父親

*2:方言でぼうや、くらいの意味か

*3:ハイ病というが結核のことかなとも思うがどうだろう

*4:日本人を殺さないという意味か、それとも我々みたいなカタワ物は殺さないという意味かどちらかは不明。

*5:順一は生きのび後に本を何冊も出すことになる。