松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「山野彷徨 日本軍米軍」

山野彷徨 日本軍米軍

 私達の家族は全員で十三人でした。私は学校も行かず、古里から十二キロ沖に有る伊江島の国場組で仕事して居りました。現在の沖縄代表、国会議員の国場幸昌の兄幸太郎が組長でした。さて、国場組が日本軍と一体となり、我々沖縄人労働者や朝鮮人軍属を牛や馬と同様にあつかい、部隊長達にいい顔をして居りました。国場組の事は、別に書く事に致します。私が伊江島を引きあげたのは、昭和十九年の八月末か九月の始めでした。伊江島から本部の古里に帰り、一月ほろして、大空襲が有り、私達の部落、渡久地が六分の一ほろのこされて街が皆やけました。街の真中には市場が有りましたが、市場の空家に日本軍の弾薬を入れて有りましたから、空襲の時に弾薬に火がつき、大爆発をおこし、危険ですから、火も消すことが出来ず、街が皆やけたのです。運良く私達の家はやけず、その後他の家テイより心配する事もなく日常生活をして居りましたが、何分にアメリカ軍の上陸の話も軍人や大人達はして居りますから、私達家族もいつ何時でも、親類の家に逃げる準備して有りました。
 二十年の三月二十四、四日頃から、上陸の大空襲が有りました。故に私達家族十三人は、オバさん、母の姉宅えヒナン致しました。長男、勇の親子七人、七才を頭に五人の子供でした。オバさんの家に行きますと、オバさんの家族と共に、一つの屋ねの下で生活する様になりましたが、二、三日すると上本部の方で金持の方がヒナンして来たので、私達家族が居る家を空けて、他人で有るお金持を良い場所に入れて、私達をヤギ小屋にうつりなさいと言って居りました。
 母はぶつぶつ言へは居りましたが、びんぼうの悲しさと思ったのか、不満そうな顔はして居りましたが、ヤギ小屋にうつりました。ヤギ小屋と言ても、半分にヤギ、半分で私達十三人の家族が生活するわけです。ねて居りましても、ヤギの小便くさく、同時にゴザが有りませんから、草の土の上にしき、二、三日生活する内に、ひにくれモノで有る私は、親類の人達に反感を持つ様に成り、毎日親類の家で不満を持ちいらいらして居るより、どこか良い場所は無いかと考えて居りまと、ふと、部落の近くにいるライ病の事を思い出したのです。
(つづく)

p117-118 富村順一『わんがうまりあ沖縄』柘植書房 1972年

以下、原文をひたすらコピペしていくというのが野原流なんですが
今回は要約で続けていくことにします。
このテキストは全文を読むの価値があると思う。もしテキストを入手できたらぜひ読んで欲しい。

 沖縄でライ病の方は屋我地島に収容される。そのライ病の方はそこに行くように何度警察官に言われても全く言うことを聞かず村里離れた家で生活していた。私は(学校を)小学校3年生で止めて馬の草刈りをしていたりしたがそのとき、ライ病のおじさんと仲良しになった。その家の木にメジロカゴをかけてメジロを取って遊んでいた。
 「君はなぜ学校に行か無いでメジロばかり取っているのか、大人になると学問が大切だから、学校へ行って勉強する様に私に何度となくススめて下さいました。」他の大人も「学校に行け」と言ったでしょうに、そのおじさんのセリフだけを覚えているのは、そのおじさんだけは単に規範を語るのではなく少年の核心に何かを届けようとしたからでしょう。「君はなぜ学校に行か無いでメジロばかり取っているのか」というフレーズにつげ義春風のユーモアを感じます。
 ともかくそんなふうに顔なじみになっていたので、彼の家のことを思い出し、おばさんの家にヒナンしてから、六、七日目に一人で山を下らり町へ行ってみる。家という家は全くない。(米軍の砲撃で破壊されたという意味なのであろう。)「夜でしたので、一人で歌を歌いながら、ライ病のおじさんの家に行くと、おじさんがびくりとした様子で、おじさんは私を見るなり、バカアメリカ軍が二日前に上陸しているだぞ、今頃一人で何をして町をぶらぶらしてあるくか、と言て居りました。」p119
 「二人で色々話す最中も頭の上は照明弾が上がり、休むひまなく砲弾の音が聞こえて居りました。多分アメリカの軍艦の艦砲射撃だたと思います。」
 真っ暗な夜だから心細く歌を歌いながら夜道を歩く。しかしそれは村を全滅させるほどの砲弾が降り注いだ直後だったのだ。米軍の前線と日本軍の前線の間にいくらかの隙間があり、そこで動くものは動物であってもすぐに撃たれる、最も危険なエリアである。しかし同時にそこは米軍のルールも日本軍のルールも存在しない奇妙なエアポケットであり、ある場合には言われているほど危険ではなくけっこう安全だったりする。この富村手記の眼目はそのエアポケット体験である。
 (9/6記)
つづく