松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

墨子メモ

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墨子言見染絲者而歎曰:「染於蒼則蒼,染於黃則黃。所入者變,其色亦變。五入必而已,則為五色矣。故染不可不慎也。」
蒼に染めればすなわち蒼になり、、
影響力あるものが、その者に大きく影響する。 p38


既曰若法,未知所以行之術,則事猶若未成,是以必為置三本。何謂三本?曰爵位不高則民不敬也,蓄祿不厚則民不信也,政令不斷則民不畏也。故古聖王高予之爵,重予之祿,任之以事,斷予之令,夫豈為其臣賜哉,欲其事之成也。 p96


賢者が国を治めると上手くいく。法はすでにある。
実行する方法:3つの基本。爵位を高くすること。蓄祿(禄高)を厚くすること。政令を断行すること。である。
ここで、蓄祿(禄高)、報酬の高さを明記していることに注目したい。
儒家的には、自分が行うことが民に役立つかどうか、その為に職を得ることが第一であり、報酬のことは自分からはくちにしない傾向が強い。このような傾向性は現代日本でもある。
墨子は、契約重視ではなく、職についても義に反する場合は直ちに止めるべきだとする。しかし、職というものについて報酬をきちんと重視している実利重視、中下層民のリアリズム、これが墨家のいいところだ。


殺一人謂之不義,必有一死罪矣,若以此說往,殺十人十重不義,必有十死罪矣;殺百人百重不義,必有百死罪矣。當此,天下之君子皆知而非之,謂之不義。今至大為不義攻國,則弗知1非,從而譽之,謂之義,情不知其不義也,p215


墨子』 は異端の古代哲学者(思想家)です。
一人を殺せば不義なのに、戦争=大量殺人ならかえって名誉を獲得できる不合理を徹底的に追求し、許さなかった。


墨子言曰:「仁者之為天下度也,辟之無以異乎孝子之為親度也。今孝子之為親度也,將柰何哉?曰:『親貧則從事乎富之,人民寡則從事乎眾之,眾亂則從事乎治之。』當其於此也,亦有力不足,財不贍,智不智,然後己矣。 p263


親が貧しければ、富ます。
一族が少なければ、多くする。
一族が乱れているとこれを治める。 仁者が天下の為に謀ることもまた同じ。
逆に読むと、貧しいとかのおおきな問題点がなければ何もしなくて良いとも読める。これが中下層のリアリズムに立脚する墨子の「善」である。
西洋でも東洋でも、中上層のインテリの考える「善」は美しく、当為はしばしば観念的当為に留まる。そうではなく、実現可能な「善」を具体的に掲げ、それに向かって奮励するのが墨子。これは体育会系のメンタリティにも通じる点があるが、墨子の場合、天の基準としての「義」が明確に掲げられているところが違う。


墨子言曰:「我有天志,譬若輪人之有規,匠人之有矩,輪匠執其規矩,以度天下之方圜,曰:『中者是也,不中者非也。』(略)曰我得天下之明法以度之。」p297


自分に「天志」という標準があることは、たとえば車輪工にぶんまわしがあり、大工にさしがねがあるようなものだ。
世の中にさまざまな言説があるが、仁義から遠い。「天志」を基準にして考えるとそれが分かる。
正義の最終的基準を、プラグマチックに実践的に考えている。


然則吾為明察此,其說將柰何而可?
墨子曰:「是與天下之所以察知有與無之道者,必以眾之耳目之實知有與亡為儀者也,請惑聞之見之,則必以為有
,莫聞莫見,則必以為無。若是,何不嘗入一鄉一里而問之,p339


鬼神がいるかどうか?
真に耳で聞き目で見た者があるならば、それは必ず存在するとする。いないならば、存在しないとする。非常に明確である。
しかし、次のフレーズで引く例は、「周の杜伯が死後に心霊となって周宣王を誅した」という話。現在の感覚ではいくらでも疑いうる話だ。
しかし、墨子にとっては正義の基準はなくてはならない、したがってそれはある、鬼神は存在し因果応報する。(仮にいないとしてもそう信じそう言いつのるべきだ)。ということのようだ。
インテリは厳密な正義を求めると言いながら、じつは一歩を踏み出さない口実、時間稼ぎを求めているだけだ、といった側面がある限りにおいて、哲学的完璧さより大衆の実践性と効果を冷静に求める墨子には、評価すべき点があると思う。


愛人不外己,己在所愛之中。己在所愛,愛加於己。倫列之愛己,愛人也。屬於 下554 大取44−8 
人を愛することは、自分を除外するのではない。自己も愛せられる対象である。自分も愛せられる対象であり、愛は自分にも加えられる。


墨子といえば、兼愛説だが、紹介できていない。
天下が乱れる根本原因は相愛しないことである。したがって、わたしたちが互いに愛する社会を作らなければならない。 兼愛上
人と人とが兵刃毒薬水火をもってたがいに殺戮する、こうした天下の害を除去し、相互に利する社会のためには、兼愛を行わなければならない。
それは決して、没我的献身的な愛ではない。普遍的ではあるが、相対的普遍性に留まる。(以上、大濱晧『中国古代思想論』p119あたり参照)
このような兼愛において、自己はそんな風に愛されるか、を書いてある一節。


不得已而欲之,非欲之非欲之也。非殺臧也。專殺盜,非殺盜也。p559


やむを得ずしてこれを欲するは、これを欲するにあらざるなり。財貨の死蔵を減らさずに、盗賊を減らすのは無理だ。山田氏の訳による。(「臧」は薮内氏によれば、男奴隷なので解釈がまったく異なってしまう。)


譬若築牆然,能築者築,能實壤者實壤,能欣者欣,然後牆成也。p589 耕柱46−3


城壁を築くのに、土を突き固め、運び、持ち上げる。分業によって「義を為す」ことを説く。従事という具体的な労働が墨家を存在させた基本であると。孟子の階級的分業とは違う。 


メモではなく文章化したいが、とりあえず。
原文は中国語サイトからコピペした。翻訳は翻訳本を読んでみてください。