松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

長安街では至るところで死傷者が出た

大事なことは「天安門広場へ続く長安街では至るところで死傷者が出た」ということ。
それも当局側から見た場合でも反政府暴動の危機といった情勢は存在せず、流血は大衆を萎縮させ、恐怖による統治を当局が選んだことの宣言である、ということだろう。

下記のような露骨な中国当局寄りの虐殺否定のプロパガンダが流れている。びっくりした。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n138314


で、当時の柴玲の嘘を、否定することにより、天安門事件=六四の巨大な意義自体を否定しようとする、デマゴーグツイッターに現れた。

些細な嘘を利用させないために!中心人物の一人劉暁波氏の発言経緯。ちょっと長いがごめん。「劉氏は獄中で取材を受けたが『私の考えははっきりしていた。たとえ広場撤退の際、死者がなかったのは事実にしても、この種の取材の目的は事実を明らかにするためではなく、発砲し、殺人を起こした政府の自己弁護のためである。なぜなら当時、全世界は戒厳部隊が広場を血で洗ったと信じていたし、一部の海外に逃亡した事件関係者は自らの英雄的イメージを高めようと事実を歪曲し、デマを言いふらしていた。私がテレビに出て死者がなかったと証言したら、全世界の怒りを買い、私のイメージはどん底に落ちるだろう。私はきっぱり取材を拒否した』しかし最後には彼は取材に応じた。『私はすぐ取材を受ける理由に思い至った。一つは死者を見なかったのは事実であり、事実を語ることは歴史への責任であり、自分への責任でもある。私が最も嫌うのは、中国人が道徳という美名の下に事実を歪曲する道徳至上主義を望むということだ。ウルケシはまさに道徳の美名を選択し事実の尊重を放棄した。二つ目は侯徳健が広場撤収の事実を明らかにしたために、社会輿論のとてつもない圧力を受けたことだ。真実を語ったために全世界の糾弾を受けている以上、事実の目撃者である私としては、彼一人にこの糾弾を受けさせるわけにはいかなかった』」矢吹晋p263『「私には敵はいない」の思想』藤原書店2011年

事実確認は終わっています。同書p270では柴玲、封従徳らも虚偽宣伝を自己批判した、1991年パリのセミナーで、とある。


日本の中国学者は99%、六四・天安門事件に大きな衝撃を受け心を痛めた。しかし中国当局が何年待ってもかたくなに事実を認めないのを見て、絶望し、どうでもよくなり、当局との付き合いを優先するようになったひとが大勢である。
その中にあって、「歴史の法廷の前に誠実でありたいとする劉暁波の精神」に忠実である第一人者こそは矢吹晋氏である。彼はまた自分の文章をインターネットできちんと公開してくださっている。上で不十分に引用した「歴史に対して責任を追う劉暁波」も下記にある。
http://www25.big.jp/~yabuki/2011/liuxiaobo-kan.pdf
13ページあるが、ぜひ読んで欲しい。
(私が引用した2箇所は、p3とp7−8にある。)

6月1日

天安門広場では子供たちが笑顔で踊っていた
http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/352415/slide_352415_3817189_free.jpg


ハフィントン・ポストにたくさんの写真が載っている。6/3までの一般参加者に政治的緊張感はほとんどなかったようだ、を示す写真として引用したい。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/05/tiananmen-square-25th-anniversary_n_5449852.html?utm_hp_ref=tw