松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

天安門事件25周年
http://www.shukousha.com/wp-content/uploads/2014/06/6402-620x465.jpg

王力雄が記録した写真──天安門事件25周年に当たり」という写真と彼の文章を劉燕子氏が翻訳し掲載している。一枚の写真をこちらにも掲載させてもらいたい。


https://pbs.twimg.com/media/BpMG_4ECEAA87Lq.jpg

1989年6月3日下午4点,来自人民大会堂的士兵们,发现局势倒转,自己反而被越来越多的抗议者包围了 元画像



https://pbs.twimg.com/media/BpLpUIKCAAAxXTC.jpg
1989年6月3日下午1点30分,武装军人被派去夺回在六部口被抗议者缴获的装载有武器弹药的游览车  元画像


それに、ツイッターでChenYingJun_KMさんという方が載せていた2枚の写真を追加する。25年前の、6月3日緊張する北京の情況を写したものだ。
上2枚の写真の雰囲気だと、学生たちは全共闘の頃の日本の学生に比べても、まったく平和な雰囲気だ。*1

下の写真では、ライフルをいつでも発射できるよう上に向けている。でも、その場にいた人は最後まで思っていたのではないか。丸腰の市民に対して人民解放軍のライフルがまっすぐに連射されること、そんなことはまさかないだろうと。理屈ではなく感覚でそう思っていただろう。


https://twitter.com/du00000bin/status/473337516347899905
こちらに何台もの装甲車が燃やされた写真がある。

当局は兵士を民衆や学生と接触させず、真相を知らせないまま『多くの戒厳部隊の軍人が、暴徒に拉致され殺されたうえ、武器が奪われて、暴動が起こった』と軍人に説明し、これで李暁明さんら軍人は反革命暴動が起こったと思い込み、義憤に駆られたそうだ。
新華社通信の首席記者で副部長だった謝文清さんは、広場では燃やされた装甲車が整然と並んでおり、車間距離は均等で、車両はすべて東を向いていて、軍事パレードのようだったと述べ、軍事記者の体験から、ひと目で当局の仕組んだ陰謀だと分かったそうです。しかも、それらの装甲車は旧型の装備であり、恐らく市民に変装した軍人が燃やし、「暴徒」の仕業に見せかけたのだろうと指摘している。
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/4083730.html

私は何もわからずに、へえ、こんなこともあったのだ!?とリツイートしたのだが。今日読んだ上記記事によれば「当局の仕組んだ陰謀」だろう、ということだ。

ここは木樨地で、最初に発砲が始まり、最も多く人々が殺された。「天安門の母たち」の丁子霖の息子が射殺され、また私の親友の厳勇の弟も射殺された。虐殺の後、六月四日の早朝、意外なことに、数十台の装甲車が、ここに放棄されていた。憤激した群衆が焼き払ったのだという。後日、CCTV(国営放送の中央電視台)が「暴乱を平定した」ドキュメンタリー番組を放送したが、群衆が装甲車を焼き払ったという場面を前に、軍隊が発砲したのを後にして放送した。私はずっとこの装甲車は、企みがあって使われた道具ではないかと疑っている。

上記王力雄氏もまた「企み」であろうと疑っている。


(なお、私は上記ツイッター記事をたまたま見ただけだ。その写真はhttp://edition.cnn.com/2014/06/01/world/asia/tiananmen-chinoy/index.html からだ。
「The day after the lethal crackdown: Torched tanks cooling in the streets.」と書いてあるだけなので、主旨は私には分からない。ただ上の2つの記事の装甲車に当てはまっているみたいに思ったが、そうなのだろうか? )


天安門広場から学生たちを無理やり撤去させたければ、その場にいた兵力だけで十分可能だったように思う。3年前のタハリール広場のような均衡した力関係までは達していなかった。大量殺害は、市民を萎縮させるための虐殺だったと、考えられる。(勉強不足だが)

*1:王力雄氏は「学生のデモ行進の隊列。スローガンは「共産党を擁護」、「中華を振興」であることが分かる。当時のデモ行進は、一種のお祭り騒ぎのようであり、その後、血なまぐさい武力鎮圧が到来することなど、ほとんどが思いも寄らなかった。」と書いている。