松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ウイグルのキノコ雲

中国の核実験を語る大江健三郎の文章の一部が下記に引用されている。
http://d.hatena.ne.jp/himadoki/20131215/1387083292
中国のある砂漠の一角にキノコ雲がおこった時、それを見守る中国の若い研究者たち、労働者たちを揺り動かした喜びの表情は、客観的にいっていかにも美しく感動的であった。

「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050820 という有名になった一文と同じ、大江の文体的な癖を感じることができる。

キノコ雲(原爆実験の成功)に対して研究者は喜びを感じたであろう。しかし、その喜びはまず疎遠なものとして研究者自身から疎外される。戦争犯罪者赤松の犯した罪も、どういうわけか彼自身から分離されて「あまりにも巨きい罪の巨塊」として彼のまえに置かれる。

決定的に大事な核心において、自己の行為は自己が制御できない自己からはみ出たものとして、疎外物として、自己の前にごろんところがっている、このようにしかものごとを感じ取ることができないのは、大江の体質のようなものかもしれない。

中国でなく北朝鮮の核実験であろうとも、研究者が実験成功に対して喜びの感情を持つのは当然のことだ。わたしたちが敵視すべきは北朝鮮の独裁者である金正恩であり北朝鮮国家自体ではないましてや一研究者ではないのは当然だ。

東(社会主義圏)の核は美しいというのか!、と嘲る人が大抵、事実上「西(アメリカなど)の核は美しい」という立場に立っているのではないかということは、厳密に検証されなければならない。たいていそうだろう。

「喜びの表情は、客観的にいっていかにも美しく感動的であった。」この「客観的にいって」をどう読むか。大江は残念ながら政治状況とかにうとい。しかし長い間日本などからの侵略に苦しんだ中国、そして米帝からの封じ込めに抗しながら国作りしている中国に敬意を表さなければならない事を知っている。

だから、ここでは美しく感動的なものを反転させずに美しく感動的であった、と書くのがPC的にも正しいのだ、と大江は考えた。その半面には、核兵器とはまずその被害者の被害の痛みに自己を同化する形で感受されなければならない、とする被爆国日本の作家大江の倫理が存在したはずだ。

被爆者の倫理それ自体に止まっていても世界を獲得できない。日本の戦争犯罪の被害者たちの反発が、第三世界の解放という運動に結実してゆき、原爆開発というレベルまで到達した時、わたしはまずそこに、必死に研究し実験を成功させた研究者の感動的営みを見る。

私が本来持っている被爆者の倫理とそれは矛盾するものかもしれない。ただ、そこに「喜びの表情」があったことは事実であり、それに私が感動したことも事実なのだ。「客観的にいって」という留保句はいかにも不細工なものであろうが、いまはそういっておくしかない。

中国核実験をめぐる日本左翼の矛盾、は過去の問題として、嘲笑的に語られる。しかし死んでいく被爆者の悲鳴に倫理の根拠を求めざるをえない私たちは、大江的なレベルを卒業できて、いるわけではない。