松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

チベットを語ることの逆説

チベットを伝達することの困難をツェリン・オーセルは見つめつづける。
オーセルは中国語による表現者であり、そうであることの困難を自らに課している。


真実を求めるためには現場に行かなければならない、そう信じてジャーナリストはチベットを目指す。
オーセルはあるジャーナリストについて語る。

とても有名な寺院を訪れた時、そのジャーナリストは僧侶に、ダライ・ラマ十四世がチベットに帰ることを望むか、と繰り返し聞きました。たくさんのカメラと録音機に向かって、僧侶は率直に、ダライラマ十四世が帰ることを希望する、と答えましたが、その表情や語調から、その場にいたものは彼はリスクを犯したことをよく感じました。
(p129 『チベットの秘密』ツェリン・オーセル 集広舎)

「ジャーナリストの職責は、真実を追究し、報道することです。(同)」彼はジャーナリストとして当然のことをしたまでである。


しかし彼には予備知識が欠けていたのではないだろうか。

もしジャーナリストがいわゆる「対外開放」のチベット寺院に対して、当局が次の通達を出していたことを知っていたならば、どのように感じたことでしょう。その表題は「敏感な問題に関する答え方に関して」です。この中には、外国のジャーナリストが質問する可能性がある問題と、標準であると規定された回答が列挙されています。例えばジャーナリストがダライ・ラマへの想いを質問したら(略)と答えなければなりません。ダライ・ラマが帰ってくることを希望するか、という質問には「祖国分裂、チベット独立の立場を放棄すれば、われわれ僧侶も彼が祖国に帰り、チベットに帰ることを歓迎する」と答えなければなりません。(p130 同)

彼はそれを知らなかった。彼は質問しそしてさらに重ねて質問することで僧侶が真実を語ってくれることを期待し、回答は与えられた。ジャーナリストは満足しただろう。しかし、僧侶は無事では済まないだろう。このたった一つの発言のために僧侶は一年も二年も幽閉され拷問を受けるかもしれない。
素直に答えることによって、僧侶が支払ってしまったリスクに対し、ジャーナリストは何を支払っただろうか。真実を追究するという高い志以外彼は何ももっていない。ジャーナリストは帰るべき国を持ち安全を保証されている。真実を追究するという目的がただの建前に堕す危険性は常にあるのだ。


僧侶は危険を冒して真実を語った。何故だろう。オーセルはこう注釈する。「また僧侶には「不妄言」の戒律があります。」戒律を守るという徳など日本では見失われて久しい。代わりに日本にあるのは、国を愛すること、命令に従うことという「常識」である。したがってそこが日本であったなら、僧侶は危険を冒すことはなかっただろう。


さて、その僧侶が「祖国分裂、チベット独立の立場を放棄すれば、ダライ・ラマチベットに帰ることを歓迎する」と発言したとして、そこには真実はないのだろうか。ないと言うことはできない。一つの発言が自分だけでなく自分の属する寺の運命まで危うくする事を骨の髄まで知っている彼にとって、むしろその選択肢しかなかったはずなのだ。
僧侶がAと言おうと反Aと言おうとそこには真実がある。真実とは僧侶には「発言の自由がなく反Aという発言しか許されていない」という状況を指す。しかしここにはパラドックスがある。反Aが反Aであることが分かるのは、僧侶がAと言ったからである。Aという発言がなければ反Aだけが唯一の当たり前の見解として疑われることはなかっただろう。
そして「発言の自由がなく反Aという発言しか許されていない」という認識も少し訂正されなければならない。つまり「命を賭けるならばAと言ってもいいがそうでない限り」という条件をつけなければならない。
それにしてもたった一言「A」と言うために命を賭けなければならないとはどういう状況であろうか。「平和ボケ」のなかで感受性を失っているわたしたちも、チベット人たちの70人に及ぶ焼身自殺を見続けて少し分かり初めてきた。
その時だけ付き合いで反Aと言っておけばよいのだ、容易いことだ、チベット人だってづっとそうやって自分を納得させてきたのだ。しかし耐えられなくなる時が来た。Aか反Aかという一つのあるいはいくつかの発言についてだけの抑圧ではないからだ。生活と文化、言語、行政、法律すべての面に渡って、チベットチベット人は差別されている。出口はない。そうした分厚い事実が焼身自殺の背後にはある。


インタビュアーは何度も質問しついに彼が聞きたかった「A」という答えを手に入れる。しかしそれで真実を伝えたことになるのか。「A」という答えは彼と彼の読者にとって、何の抵抗感もなく聞き取ることができる当然の答えである。彼と彼の読者は自分たちの先入観を、現場にいる僧侶に確認してもらって自己満足できるだけだ。
文章の表面上に意味では僧侶と彼の読者では円滑なコミュニケーションが成立している。しかし、「A」という答えの背後にある、自分だけでなく自分の属する寺の運命まで危うくするリスクを冒してという危機感は、伝達されたのだろうか。
「その表情や語調から、その場にいたものは彼はリスクを犯したことをよく感じました」
インタビュアーはその場にいたものであろう。では彼は僧侶のリスクを深く感じ取ることができたのだろうか。そうであればなぜこの文章は「そのジャーナリスト」を主語としておらず「その場にいたもの」を主語としているのだろうか。おそらく「その場にいたもの」(発言している僧侶と同じ状況を生きる者たち)はそのとき、ああと声をあげそうになるほど驚いたはずだ。自分たちが言いたいと想いそして言ってはならないと長年打ち消してきたひとつの発言が、「たくさんのカメラと録音機に向かって率直に」、語られてしまうのを聞いて。「そのジャーナリスト」はその場にいたものとしてその雰囲気を感じ、遅ればせながら、僧侶のリスクを深く感じ取ることの入り口に立った。


この時、言葉とは何だろう、とオーセルは自問しただろう。Aという発言は何を意味しているのか。それはそこに並べられた単語の意味の連鎖ではない。Aと発言しようとした瞬間に押し寄せてくる反論、否定、抑圧、危険とそれらすべてに対する呻き絶望とさらにそうした状況から抜け出したいとする祈りの強さ、それらこそがむしろ発言の意味であろう。ジャーナリストはそれを彼の読者に伝えることができるだろうか。それは絶望的に困難なことだ。


しかし、絶望するのは早い。チベットから遠くはなれた日本においても、オーセルさんの本を読んでいけば、数ページでは無理でも、数十頁読んだ時に、は否応なく分かってしまうことがある。チベット人が苦しんでいること。そしてオーセルと劉燕子はそれを伝えることの困難に苦しんでいることを。


それに気がつくためには、わたしたちは、僧侶の「A」という発言をなるほどああそうなんだねと安易に分かってしまってはならない。