松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

戦後啓蒙主義批判

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120317 の続き。

「大衆の原像」に関連し、笠井潔氏は以下のように呟いた、3月24日。

小松左京のデビュー作「地には平和を」は、パラレルワールドで本土決戦を戦う少年兵と、平和と繁栄の戦後日本を生きる青年(同一人物)が二重化されて描かれている。作家的な出発点で小松は、両者のいずれにも自己決定しがたい矛盾を抱えていたのだろう。
(略)
三島由紀夫ならともかく、8・15と不徹底な敗戦をめぐる不全感が、小松左京にもこのように存在していたことに驚かざるをえない。一般に小松は、戦後進歩主義の代表的な知識人・作家と見なされてきたからだ。戦後進歩主義は、戦後民主主義や戦後啓蒙主義と三位一体的な戦後イデオロギーだ。


ところで吉本隆明は、本土決戦も敗戦革命も眼中になく、命じられたまま武装解除して黙々と故郷に向かう復員兵たちを見て、複雑な気分になったと書いている。分配されたのか略奪したのか、復員兵たちの背嚢には軍需物資が詰めこまれていた。


それは知識青年として、昨日まで本土決戦を呼号していた自分の姿でもあった。理念に忠実であれば、今日から反米パルチザン戦争を開始するべきなのに、なにもできず、ひたすら虚脱しているわけだから。この体験で吉本は、二つの教訓を得たように思われる。


ときに熱狂して行きすぎ、憑き物が落ちたように平然と日常に戻っていくばかりか、反省しないでまた同じことを繰り返すだろう日本の大衆のどうしようもなさ。しかし、これに理念的な高みから知識人的な説教をすることはできない。知識人もまた、自分の情けない姿が示しているように大衆と同じだからだ。


このデタラメでどうしようもない日本の大衆を、絶対に敵にしてはならない。「遅れた」存在として侮蔑し、啓蒙の対象としてはならないという発想が、「転向論」に代表される1950年代の仕事の背景にある。


共同幻想論』から「南島論」までの吉本には、大衆のデタラメでどうしようもないところを全面的に引き受けながら、その上で批判的に乗り越えようという発想があった。自分と自分の家族と郷土を守ろうとする自然な感情が、そのまま国家(天皇制)に精神的にサクシュされてしまう謎を解こうとしていた。
http://twilog.org/kiyoshikasai/date-120324

吉本隆明は戦争中戦争主義者、大東亜主義者であった。でそれを戦後になってから、「外から」欧米の知的地平から否定、批判する思想に強く批判的であった。
吉本は1924年生まれ、敗戦時21歳。同年齢では超エリートはマルクス主義などの左翼思想に触れる機会がなかった。*1
後に吉本は、幻想の共同体に過ぎないと冷たく突き放すように国家を規定する。いや違うのだろう。国家が共同幻想であるならそれに対抗しようとする共産党やあるグループも共同幻想である。それはすぎない、と軽視できるものでもなく、またそこに熱心に情熱を注くことが間違っているわけでもない。
まあそれにしても、国家は一つの共同幻想に過ぎない。巨人ファンが巨人を応援する事とオリンピックで日本を応援する事には本質的な差異はない。
戦争中は違った。吉本はあまり論じていないように思うが、教育勅語明治憲法体制においてはすべての倫理の基礎は〈日本ないし皇祖皇宗〉である。最終審級は〈日本〉でしかない。それ以外の考え方は存在し得ないのだ。


で吉本より年長のインテリは当然ルソー、マルクスなどの西欧思想に通暁していた。しかし彼らは極々少数を除き転向して、それだけならともかく戦後再転向し、転向の事実を隠そうとした。これを糾弾したのが吉本の1956〜58年、『文学者の戦争責任』や「芸術的抵抗と挫折」など一連の文章であろう。


壷井繁治の文章の一部を引く。

お前は膝まずいた、権力の前に。だから裏切者といわれても仕方がない。権力と闘うべき党を裏切ったのだから。(中略)ひとたび裏切った者は、ふたたび裏切ると誰かがいった。僕はまた裏切るだろうか。驢馬か、英雄か、わからぬ不安。

ここでは、「憎むべき権力/闘うべき党」という二項対立図式が、戦中/戦後という動乱にも関わらず、ずっと通用しうるものと前提されている。壷井はなぜこのような図式を採用したか?
それは自らの実存の底部においてどのようにしてもやむを得ず自らの信条を裏切ったという転向(そして再転向)という実存の暗部を、見ないでなかったこととして通りすぎようとした、という事に他ならない。


大衆に対して、理念的な高みから知識人的な説教をする権利はインテリにはない。
ではどうすれば良いのか? 吉本は大衆の原像を自己の思想に繰り込んでいくという課題を設定する。すなわち言い換えるならば、それは笠井氏の言う「このデタラメでどうしようもない日本の大衆を、絶対に敵にしてはならない。「遅れた」存在として侮蔑し、啓蒙の対象としてはならないという」命令である。


いわゆる国家主義を「「遅れた」存在として侮蔑し、啓蒙の対象としてはならない」事は、明らかである。21世紀に入ってなお、最終審級として日本しか持ってない人々がネトウヨだけでなく大量に存在しているのに、それを自らの敗北として総括し得ないのは、社会を変えようとしているのではなく、「正しい自己」という幻想を守ろうとしているだけだという事になる。
ウヨ/サヨ二元論を越えた思想が必要である。吉本が50年代に提示し過去のものになったはずの地平に、いまだ囚われた人ばかりであるというのは、いったいどういう事なのだろうか?

リンク

http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20120324/1332559973
これは吉本さん自身の根本的な感覚なんじゃないかと思うが、自分という存在が赤ん坊のように不可思議な環界にぽつんといて、環界のすべてが異和であるという感覚である。その不可思議な環界はすべて等価に考える対象とならざるをえない。ひとりでゼロから考えるように考えることをせざるをえない。学問の対象だから考えるとか、仕事の対象だから考えるとか、時代の思潮だから考えるということではない。生きていること自体が異和を感じさせてしょうがないからいつのまにか考えているというような感じだ。吉本の本を読むときにだけそういう赤ん坊のようなぽつんとしたあてどのなさに触れることがある。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/2576
だが、日本の大衆が勝利することは一度もなかった。(略)

 民衆革命、民衆・国民のための政治革命は、いつもいつも敗れて、敗北して、今に至る。 だから、本当は革命家であり、敗北した革命家としての吉本隆明の、真の姿を、私は、この40年間ずっと見つめ続けたと、吉本の同行(どうぎょう)の衆(しゅう)としても言える。


 終始一貫して過激な言論人であった吉本隆明の発言や思想表明は、ほとんど国民大衆にまで届かず、理解されることなく、いつも、いつも日本の悪辣(あくらつ)な大メディア(テレビ、新聞)から意図的に、隅に追いやられ、どかされ、忌避され、押しつぶされてきた。
(略)
日本の戦後を生きた すべての政治知識、政治運動への関与人間たちは、すべて敗北者であるのに、その自分たちの敗北を今も全く、自覚せず、その責任を感じて引き受けようとした者は今も少ない。
副島隆彦

(3/25記)

*1:仮に触れても、極限的超国家主義はそれすら飲み込むものであった。聞けわだつみの声にそんな文章がある。