松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

橋下アンケート

http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20120222
研幾堂さんのところに、いくつかコメントさせていただいた。こちらにも転記する。

研幾堂さま
挨拶抜きの攻撃的書き込みに丁寧に回答いただきありがとうございます。


1)

アンケートが、公務員の労働運動、政治活動に狙いがあり、それが政治・思想の自由の制限をも意図していると私も思います。

それは私の論点ではないですね。


2)私の論点は、国家は私人の政治的プライバシーを知る権利があるか? です。

 しかし、それらを「捉える」必要が無いと言うのなら、私は批判し、否定する対象を認識しないで、どうやって批判や否定が出来るのか、まったく分かりません。

どこから物事を考えるか、ですね。
西欧的自由というのは、国家からの私人の政治的思想あるいは行動の自由が原点なのではないのですか? (橋下は国家ではないですが、公権力の長ですからここで国家と等値してもよいと考えています。)
したがってこの点についての「否定」的判断がまず第一行目にくるのであり、そのために「狙い、意図」など考える必要はないと思います。


橋下氏の行動は変幻極まりないだけでなく、「狙い、意図」についても固定的でないと考えてもいいのではないかと思います。人気や視聴率が狙いなら、研幾堂さんの言う「狙い」とはまったく違った次元に存在するものでしょう。


3)

 それと相関的に、公務員である人々が、どんな利益・権利を奪われたことになるのか、まったく明瞭になりません。
 人権も自由も普遍的価値です。だからこれの正当さを言うに、あらためて多くの言葉は要らないかもしれません。しかし、これを守るには、それらを漠然とした普遍的なもののままで、正当化するのに言葉を要しない価値という姿のままで持ち出すだけではいけません。

今回のアンケートははなはだ具体的なものですね。国家は私人の政治的プライバシーを知る権利があるか?としてとらえるなら、具体的なものがそのまま普遍的自由の問題でもある好例に他ならない、と私には思えるのですが。


4)

私はその「彼ら」として、ファシズムといった言葉を容易に使ってしまう人、普遍的価値だけで議論しようとし、しかもそれで既に勝っていると思っている人、

おそらく、それについてはかなり同感できる面があるかと思います。しかし具体的名前を上げて議論する方がよいのでは、と思います。


5)

 下手をしたら、そこに〈公務員〉の身分保障とか利益・権利といったものがまじりこんでしまわないでしょうか。そうなれば、それはかえって、人権や自由の意義を持ち出しての議論を疑わしいものにしてしまいます。

官僚というより公務員一般が日々具体化しているのは、法律に基づく行政です。それに対して二つの理解の仕方があって、<基本的人権憲法→法律→(上司)→仕事>という理解と、<(世間)→上司→(法律)→仕事>という理解の二つです。
橋下は「上司の命令を聞け」すなわち後者だけを部下の常識にしようとしています。〈公務員の身分保障〉というもの、公務員の政治的独立(教育委員会の独立とか)は、後者に対して前者を援護するという面をもっていました。本来は。
公務員労働組合は今日のように逆風の時代には、直接市民の側に(人権の側に)立つことを宣言し、実行し、PRすべきだったでしょう。


現在でも、それぞれの法律の多くには(不十分とはいえ)デュープロセスの規定が存在します。公務員はある意味で自らの手足を縛るものであるそうした規程に従うことにこそ、誇りを見出し、その意味を市民にも伝えるべきだったのです。
そのように考えると、公務員の仕事に、効率性、目的達成の速度、を求める橋下行革は、デュープロセスの精神を軽視しようとするもの、そうした方向性を示しています。
そのような動きに敵対していくべきではないでしょうか。


6)

相手の正体として私が考えるのは、抽象的に流れる嫌いはありますが、《公》権力は天皇制官僚が具体化するものであるという天皇制国家の思想と、かような《公》権力の行政組織に相応しい行政職員のあり方と、この二つのものです。

天皇制)官僚かどうかはともかく、官僚というより公務員一般が日々具体化しているのは、法律に基づく行政です。それに対して二つの理解の仕方があって、<基本的人権憲法→法律→(上司)→仕事>という理解と、<(世間)→上司→(法律)→仕事>という理解の二つです。

 その二つのところから、公務員の労働運動、政治行動を制限するのを、橋下市長らは正当化している、かように私は考えています。

よく分かりません。

 ところでかような利権構築も、官庁・行政という公権力は、人々の間でのプリンシプルには律せられず、別次元の原理に基づく存在であり、人々の間での価値観から批判されることのない存在であるという考え方、これを天皇制国家のものと私は思いますが、そこから出来上がった行政システムの故に可能であるものと思っています。

「かような利権構築」は、教育にかかわってバウチャー制を導入するなど、いわゆる欧米の新自由主義政策のまねであり、「天皇制国家」と結びつける必要はないように思います。
天皇制」という言葉については愚かながら長い間考えてきてまだ結論がでません。今後もお話できればと思います。


7)

今回とは別の人達、別の考え方からでしょうが、同じように独裁、ファシズムといった言葉が投げつけられました。
 それによって、良いものも悪いものも、その時には何もはっきりしないままに、行政の特異な独立的運営が守られる結果にだけなったように思います。

「行政の特異な独立的運営」が守られる、ふーむ、そうした事もないとは言えないかもしれませんね。
日本社会は40年ほど秩序派優位で風通しの悪い社会が作られてしまいました。地方公共団体とか、さほど大きくなく、無風地帯であり、空気が悪い可能性はあります。


8)

 民意に従ってという理屈も、人権や自由を尊重してという姿勢も、もともとからしてこのシステムの中にあるように努めているものが多くありますし、また結果的には殆ど総てが、そのシステムの中に適うところでのみ受け取られていきます。

公務員が市民のための公務員でない、ならその人権や自由を尊重せねばならぬといわれても、しらけるだけ、ということですね。
ただ、現在、橋下氏や公務員バッシングに加担しても、事態はより悪くなるだけと思います。官僚とか天皇制とかいう言葉で、批判するより、もっと微視的な批判の方が有効かもしれない。


9)

天皇制国家を積極的に否定はしないが、しかし、天皇制国家(の中で)の政治・利益均衡バランスの一構成要素たる地位を保持しようとして、

労働組合はまあそういうものでしょう。

10)

そこで公務員の権利を、民主的国家の中での労働運動や労働権のように擁護したりすると、それによって実現するのは、議論の見かけではそれを目指しているように見えたものとは、全く別のものになるだろうと考えています。多くの場合には、民主国家の市民ならば行える行政監視と責任追及から、この国の官僚達が守られているのと同じように守られた存在にする、そういう結果に到るように思っています。

不十分ではあれ、情報公開法もあり、「民主国家の市民ならば行える行政監視と責任追及」は現在でも行えます。 公務員一般の政治的プライバシーを上司が監視する権利など職場の風通しが悪くなることに加担するだけであり、支持されるべきでないと思います。この点について理解いただけないのは残念です。