松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私たちは勝利する

大阪での原発市民投票の見込みは絶望的だった。42000以上の票がいるのに18000位しか集まっていなかった。締切りは1月9日で、集約締切りは7日と定められていた。10日ほどしか時間はない。しかも世の中は年末、正月とすべての普段の活動は休止すべき時期になっている。女性である私にとっては実家に不義理をわびかいがいしく働くふりをしなければならない時期だ。
そでも私は寸暇を惜しみ、街頭に立ち続けた。たいていの人は話を聞いてくれず立ち止まらない。それでも積極的に応じてくれる人もたまにいるのが救いである。そんな風に日々が経ち、ついに1/9が来た。そしてなんと42000ははるかに越える票数が獲得できたのだという。私たちは勝利した。


ところが大阪市長になった橋下徹氏は、これを拒否するという。理由は簡単だ。笑顔の独裁者橋下徹氏の武器はたった一つ、〈民意〉である。彼は壊れた巨大な城に向かって突撃する幻を私たちに売りつけるドン・キホーテである。ドン・キホーテの志が真実である時、私たちはドン・キホーテ喝采する。そんな風に彼は投票を勝ち得た。しかし彼の突撃した巨大な城というものが、
崩壊寸前のパチモンでしかなかったことは、WTCビルを実際に使ってみてそして大地震を経験して誰にも明らかになった。さてそれでも橋下の人気は衰えていないようだ。私たちには変革が必要だ、と市民はみんな考えている。変革を希求する民意は私たちに署名してくれた。しかし署名せずしかも橋下に期待し続ける市民がいる。彼らは自己の無力に直面するのが怖いのだろう。
しかし、自己の無力に直面することの何が怖いのだろう。私は女だ。太古の昔から、弱きもの汝の名は女、と定められてきた女だ。いまさら何を怖れることがあろう。


攻撃はもっと身近からもやってきた。原発市民投票は必ず敗北するから利敵行為だというのだ。反原発脱原発の志をもった市民の一部が急に激しい攻撃を掛けてきた。敗北する。敗北とは何だろうか。可能性を偏差値(現時点での予測可能性)で測りあきらめてしまうことが、敗北だろう。そもそも大阪市の市民投票は怒りの表現それ自体である。42000票でもすでに巨大な怒りの表現たりえている。したがって今後はより大きな勝利に向かって前進することができるだけだ。
反対票がより多く集まるだろうと怖れる人たちは言う。そうだとしてそれが何なのか?幻の偶像である橋下のような候補者に期待するという行為は、最初から何の未来も生まない行為である。一人の市民が原発について考え、「保安院全員アホ」について考え、放射能被害について考えること、それはしなければならない事ではない。しなければならない事と捉えるから、私が代わりに考えてあげるという橋下の誘いに乗ってしまう。原発について、「保安院全員アホ」について、放射能被害について、考えない自由もある、考える自由もある、その自由に気づくことが最初で最後の重要事である。


大阪市民は変革を望んだ。変革とは笑顔の独裁者に期待することでは断じてない。そもそも、「期待」などというものをするなど、良い大人には考えられない馬鹿げた行為である。そうではなく私たちができることは自己の不安に気づくことだ。42000人の「放射能被害の放置を許さない」とする怒りこそが、変革につながる。私たちは勝利する。
(女性に仮装して書いてみた。)