松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「役人の自由」と「民衆の自由」は必ず衝突する

次、秦暉:西側の経済学者はなぜ中国をもてはやすのか(初出: 2010年09月25日 )について*1

「中国は人類最良の体制を創造した。それは福祉もなければ労働組合もない国家だ」とか「世界の趨勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学ぶことだ」(つまりは高福祉国家が低福祉国家に学び、低福祉国家がマイナス福祉国家に学ぶことだ)と言っています。

これは悪意ある要約だと思うが、米国のネイスビッツや香港の経済学者の張五常は、真顔でこうした主張をしているらしい。
 *2

左派は中国の低自由を持ち上げることで福祉国家の正当性を証明しようとし、右派は中国の低福祉を持ち上げることで自由放任の正当性を証明しようとしていのです。ですが、低自由かつ低福祉の可能性など彼らは考えてもいません。

この辺は上の記事と同じ。日本はかって、画一主義・集団主義的(低自由)組織を保持することで福祉国家をまあ実現した。次に日の丸君が代を強制することで中間組織(労働組合等)を破壊し、新自由主義になったが、うまく行っていない。

 もちろん、低自由かつ低福祉は「競争の優位性」を体現します。(略)
門戸を開き、一つの市場に融合し、投資行為が高度にグローバル化し、金融も高度にグローバル化し、一方で人権基準はグローバル化しないという条件の下で競争したとき、はじめて中国モデルの優越性が体現されるのです。

中国のような「低自由かつ低福祉」な国と価格を含む経済競争をしても勝てるはずが無いのが、日本。日本社会はそれに気付き、それでも気付いていないふりをするといった無意味な一人芝居をしているようでもある。

フォーゲル(R. W. Fogel)はかつて南北戦争前の米国南部奴隷制は北部より「効率的」だったことを論証していますし、ドーマー(E. D. Domar)もかつて17世紀以降の東欧の「第二次農奴化」経済は自由農民経済よりも効率的だったことを論証しています。それはどちらも大市場を背景としています

きびきびと効率的に働く労働者は自由主義体制の下ではじめて可能だというのが、今までの経済学の常識だったが、そうでもない。それは上記の研究でも明らかだし、中国の現実もその証拠だ、と。
自由経済の利点は「活発な絶え間ないイノベーションの点」だけにしかない。

その〔専制が民主制に勝利する〕可能性は確かに排除できないのです。

と、秦暉は冷静に認める。このあたり文学・思想家でもなく法学畑でもない経済学者でないとこうした発言はできない。*3

今回の危機が発生してから、外需が委縮したので、投資で引張るよう転換し、その結果投資が生産能力を形成するとさらに深刻な生産能力過剰をもたらします。去年は内需拡大が大きく進んだと言われますが、多くの人がそれは政府消費であって家計消費ではないとか、伸びたのは「官内需」であって「民内需」の伸び率が大きいわけではなく、またリスクが潜んでいると述べています。

要するに、今では「成長方式の転換」(実際は体制転換の婉曲表現)は不可避となっているのです。

「成長方式の転換」(実際は体制転換の婉曲表現)の( )内は、訳者の注釈である。*4 生産力と生産様式の矛盾*5を思い出すところだろう。


次にアパルトヘイトから変革を遂げた南アフリカの経済状況が検討される。

人々は「移動労働」制度〔南アフリカで行われていた単身男子労働者の出稼ぎ就労制度。就労先地域への定住を認めない点で中国の戸籍制度の下での出稼ぎ制度に類似している。〕を批判しますが、それ以前の徴用労働制度の方がよりひどかったということを知っています。

変革前の南アが現在の中国に似ているなら、中国も変革すべきなのかもしれないという含意がある。


王力雄さんもボスニア・ヘルツェゴビナに言及していたが、中国はやはり史記の国だけあって、西欧風に観念を垂直に掘り下げたりするのではなく、他国の様子とかを簡潔に記述しそこからダイレクトに結論を導き出すみたいな知性に特徴があるのかな、とちょっと思った。

確かに、一部の民主制国家は平等と福祉を重視するのでそれほど「自由放任」ではありませんから、一部の専制国家は経済面でより自由であり得ます。その種の現象は確かに存在します。ですから、世界で一部の「新自由主義」嫌いの「左派」が、一部の専制国家が民主制国家より経済の成長が速いのを見て大喜びしていることは、全く理解に苦しみます。

このあたりは知識が無いのでどういうことなのか分からない。

スウェーデンの 福祉住宅保障は一定程度商品住宅の自由取引空間を狭めていますが、中国の「マイナス福祉」住宅、土地独占と低水準住宅の勝手気ままな「撤去」つまり「福祉も与えず、自由も与えない」という貧乏人追い出し政策は、住宅市場をより大きくゆがめているではないでしょうか?

 上にのべた自由は主に貧乏人にとってのことですが、私はそれは非常に重要だと思います。

低水準住宅を撤去されてしまいいくところがなくなった貧乏人は不便な郊外の公営住宅には入れるのだろうか。ウサギ小屋と揶揄されながらも庶民のアパートマンション購入は日本経済成長の大きな要因となった。別に良いシステムと考えたこともなかったが、そうやって経済を回して行くことの方がベターだったのだろうか。

しかし、私は少なくとも中国のような国では、貧乏人が自由(経済的自由を含む)を制限されている苦しみは金持ちに劣らず、貧乏人が自由を必要とする程度も福祉を必要とする程度に劣らないと思います。

秦暉は福祉を自由より重視する、みたいな粗雑な要約があったが、そんなことはないことが分かる。ただここの自由はやはり経済的自由で政治的自由ではない。といっても、政治的自由があれば経済的自由に広がっていくしその逆も可、といったイメージで、相反するものではない。

しかし、「貧乏人の自由」と「金持ちの自由」は衝突するとは限りせんが、「役人の自由」と「民衆の自由」は必ず衝突します。政府が制約を受けなければ、貧富に関わらず民衆の自由はありません!

というのが結論。
批判の構図としては劉暁波と大差ないという印象。08憲章について違和があったとすれば、どうやって達成するかという方法論のレベルであったのかな、と思った。


日本では天下り批判とかが盛んだが、本質つまり「役人の自由」がやはりあるのかどうかを問わなければならない。原発問題において、原発推進勢力(財閥、電力会社、官僚)はマスコミと学者を抱き込んで、異論をマスメディアにのせることすらできない状態が続いていた。「役人たちの自由」によって「下層民衆の自由」は実に巧妙に抑圧されてきたと考えるべきだろう。

*1:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/92c67c5082956b0b411d5eaee20dc679

*2:日本は福祉国家のようですが、税金等による再配分効果はマイナスとのことなので福祉国家ではない、のかな?

*3:秦 暉(チン ホイ、しん き)は中華人民共和国歴史学者、経済学者、かつ積極的に社会的発言を行っている民主派の知識人の一人である。とウィキペディアにある。

*4:勝手な推測で断言してしまったが、sinpenzakkiさんから 2011/05/03 10:22 コメントをいただき原文のままとのこと「「成長方式の転換」(実際は体制転換の婉曲表現)の( )内は原文の翻訳です。」

*5:「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。マルクス「経済学批判」