松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

土地を追われた中国農民に対するお詫び

「嗚呼 満蒙開拓団」は1945年に旧日本人入植者に起こった悲劇を描いた映画ではない。大きな悲惨が数十年を隔てて辛うじて記憶・追想されるそのあり方についての映画である。
記憶・追想のメディアは墓である。
戦後十数年経ったころ、一人の中国人農婦*1が砲台山の麓の畑を開墾していたとき、山となった日本人の遺骨を見つける。せめて埋葬してあげたいと、方正(ほうまさ)県政府に日本人の墓を作る許可を願い出る。
(党中央の是認する所となり)黒竜江省人民政府外事弁公室の趙喜晨は墓碑の建設を命じられ、建設する。以来数十年、方正政府はそれを維持管理し続ける*2*3


数十年の間に方正に縁をもった日本人遺族などが細々と墓碑を訪れ続ける。彼らの一部は「方正友好交流の会」を結成する。2005年には会は(事務局長大類善啓)再出発し、「星火方正」という会報を作成し現在10号まで継続している。
サイトhttp://www.houmasa.com/index.html があり、会報のすべてはここから読むことができる。

開拓団が入植したのは不毛の荒野かと思っていたが、実際には一番肥沃な農地だった。そこを追われた中国農民は以後、悲惨な生活を続けなければならなかった。そこで考えたことは日本人公墓や養父母の墓、各種日本側団体による友好の記念碑はあるが、開拓のために土地を追われた中国農民に対するお詫びか慰霊碑のようなものが無いことだ。
http://www.houmasa.com/newsletter1-1.html (2005年)

最近黒竜江省に農業機械の指導に行かれたある方の意見が会報1号で、上のように紹介されている。
「お詫び」を形にすることはいまだ成されていないようだ。


一つの墓碑、一つの映画、それから広がる様々な人の思いのなかで、とりあえず映画に対する四方田犬彦〜zames_makiの批判も(受け継がれて)いく。

*1:じつは日本人、松田ちゑさん

*2:文革の荒波に抗してそれを守ることは大変なことだった

*3:http://www.houmasa.com/Newsletter%20No.10/1005-1.pdf