松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

主体を開かれた問いの中に投じること

昨日今日とさすがに暑いですね。
で、いくぶん涼しい朝は終わり真昼です。

莫言『豊乳肥臀』にむりやりデリダを交差させようとする試みの、核心を掴みきれずに、どうしたものかと思っています。


主体の後に誰が来るのか?\\「誰?という問いに答えることそれはすでに再自己固有化の運動だ。そうではなく、私、主体や自我を「誰?」という開かれた問いの中に投じることが問題なのである」林好雄p169デリダ講談社メチエ


野原は中国革命期の〈闘争大会〉について考えているが、それを再現し再開することが、〈主体を「誰?」という開かれた問いの中に投じること〉になると信じてのことだ。


twitterで引用と発言を一つづつした。
つぶやき、言葉たらずが許されるそうした文体でしか語れない。

7/15に引用したように

私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはやけっして私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。 p126

ただここでデリダは何を言っているのだろうか。デリダは言葉は通じると言っているのだろうか、それを含むがそればかりではあるまい。彼の愛した文学者・哲学者は概ねディスコミュニケーションの文学者たちだったからそれから考えてもそういうことはあるまい。
言葉を少しでも発すれば、デリダのような高級な解釈者たちはたちまちそこに解釈を積み重ねる、それは単独性の喪失、言語共同体への取り込まれである。しかし言葉とはそうしたものか。


解釈のために限りない時間を与えれているかのような帝国中心部でとは違い、言葉はある狭いコードでのみ解読されそれに当てはまらない言葉たちはなかったものとされる。デリダに欠けているのは、言語に関するこうした感覚である。
帝国中心部においても、一つの訴えを現実の裁判所に対して起こしてみれば、ある主張はたちまち増殖し書面の厚さはすぐに10cmを越える。そうなってみれば脱構築してさらない厚さを増加させようとする意欲は削がれざるをえない。


言いたいことは、デリダは難解な言表がたちまち意味に還元される特殊な世界に住んでいるため、発言することを「システムにおいて発言すること」に等値してしまう。
言語にシステムの外があるのか?にYESと答えない限り野原の言っていることはナンセンスだと言われるかもしれない。 しかし外があることは明らかだ、と私は考える。


〈逆説と躓き(スキャンダル)とアポリア〉というものが、デリダはよほど好きであるようが、それは間違った布置による結果ではないのか。