松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

赤子に死を与える・2

バージルさん(id:Vergil2010)のつっこみにうまく応えられず、考えていた。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20100705#c1278599269


「いとしい子供に死を与えよ」という命令は、国家のための国家によるそれである場合と、それと区別がつかないくらい似ているがそれとは違う〈超越〉による〈超越〉のためのものである場合の二種類がある。(中国共産党とか革命の大義とかいうのは当然前者に入る。)
で、前者を全否定するためにも後者を部分肯定したい、キルケゴールデリダの助けを借りて。
というのが、私の基本的な構図である。


ところが魯立人の演説の内容は、「中国革命の大義」という絶対権力の幻想を遂行的に確立しようとするものである。
したがってそれを弁護するのは間違っている。バージルさんの言う通りである。

ひるがえって一つの共同体の再生の為には、一つの死が必要なのではないのか? 絶対的に無実である無辜の赤子を殺すこと、階級闘争というただの抽象概念を受肉させるためには、わたしが私個人において「絶対者に対して絶対的関係に立つ」必要がある。私が赤子を殺す必要があるのだ。(野原)

わたしが私個人において「絶対者に対して絶対的関係に立つ」とはどういうことだろうか? 生まれてこのかた私を育んでくれた大地にも似た常識というもの、それが崩壊して始めて、殺すなという倫理が明確に立ち上がってくる。殺せという命令によって始めて、殺すなという倫理が立ち上がってくるのであり、常識のまどろみにおいては自己と倫理の実存的関わりは存しない。
殺せという命令はそれが理不尽であればあるほど、倫理を実存的に問うというシーンを開く力を持つのだ。アブラハムの物語が古来幾多の哲学者を引きつけてきた所以である。
しかしなさけないことに、私は「絶対者に対して絶対的関係に立つ」シーンにその強度に、数瞬しか耐えることができない。
わたしたちは絶対をすぐに、常にすでにそこにあるもの「国家あるいは党」に預けてしまう。上の一文では「共同体の再生、階級闘争」というそれぞれ意味の違う言葉が一瞬の後には、共産党という磁場に巻き込むべき強い力としてだけ働くことになるのだ。


わたしたちはどうしたらよいのだろうか?
わたしが提示したい答えは下記によって暗示される。

というのも、アブラハム、イサク、そしてヤコブの神は、哲学者たちの神や存在−神学の神とは違って、自分の前言を取り消す神だからである。
デリダ p284「死を与える」


わたしたちはもちろん中国革命の現場に立ち会っているわけではない。
莫言*1という作家が1996年に出版した本の一節を読んでいるのだ。ただのフィクションではなく、中国革命のある真実が、その一節にも投影されていると読みうると考えたからである。
その真実は中国当局にとって不都合な真実であったようでこの作品は発禁になった。*2
中国革命の現場が40年後にある作家によって小説のなかに再演され公開される。
子供二人を銃殺せよ、という命令の再演。再演がなければわたしたちはそれを知り得なかった。


いやそんなことはない、と反共主義者は言うだろう。子供二人を銃殺せよという命令、あるいは闘争集会の熱狂の再演は、文化大革命において中国全土において大々的になされたではないか。闘争集会の権威は生き延び殺せという命令もいたるところで再演された。


1960年代における事実がそのようなものであったことをわたしたちも確認するべきであろう。でなおかつ、莫言による「銃殺命令の再演」をわたちたちはどう味わうのか?
私たちは現場に立ち下り、細部を鑑賞すべきだろう。なぜなら、問題は魯立人という一人の男性と「中国革命の大義」という巨大な物に占有権を持つと主張する「党」との差異にあるのだから。

魯立人は一枚の紙切れを取り出し、読み上げた。

調査によれば、富農の趙甲は一貫して搾取を行ってきた。日本軍の傀儡政権時代には、傀儡軍に大量の食品を提供した。司馬庫統治時代にも、何度も匪賊軍に炉包をとどけた。土地改革が始まってからは大量のデマをばらまき、公然と人民政府に敵対してきた。かかるかたくなな頑固分子は、殺さなくては人民の怒りを鎮めることはできない。ここに高東県人民政府を代表して、趙甲に死刑を宣告し、ただちに執行する!

地区武装隊の二人の隊員が、死んだ犬でも引きずるように趙甲を引きずり上げると、蓮や草も枯れた池のほとりまで引きずって行った。隊員が両側に離れるや、唖巴が趙甲の後頭部に向けて一発撃った。素早い動きで、趙甲は頭から池に突っ込んだ。煙を吐いているモーゼル拳銃を提げて、唖巴が改めて舞台の上にもどった。
(p337  莫言『豊乳肥臀・上』吉田 富夫訳 平凡社 ISBN:4582829384

法は不備であり、執行は急過ぎる、であるとしても。
犯罪があり求刑があり意義申し立ての機会を経ての判決そしてその執行、ここではすべてのプロセスが公開されている。そしたそれは40年後にも再演され読者による再評価に開かれている。わたしたち日本国家の行う死刑に至るプロセスが公開への意志の逆、隠蔽への意志に貫かれていること、そしてわたしたち国民が誰に頼まれた訳でもないのに常に隠蔽を支持してきたことを比較して考えなければならない。


絶対的に無実である無辜の赤子を殺さないためには、赤子が死んで行くことを放置しているたくさんの国家を転覆させるために努力しなければならないだろうか。そうかもしれないがそれは別の問題だ。
わたしは私個人においてすでに「絶対者に対して絶対的関係に立」っている。わたしは投票行為を行うとしてもそのことによって何を委任している訳でもないのだ。わたしには「子供を銃殺せよ」という命令が聞こえる。それに従う自由もまた私にはある。従わない自由が私にあるとすれば。

*1:1955年、山東省高密県の農民の子として生まれ、人民解放軍に所属しながら作家活動をおこなっていた。

*2:この部分が問題になったのかどうかは分からない。