松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

月岡雪鼎と女性の快楽権

今朝twitterにメモした。

今日毎日新聞より、アンドリュー・ガーストル教授インタビュー。月岡雪鼎(せってい)という上方の絵師がいた。女子の教訓書「女大学宝箱」をもじって「女大学宝開(たからべき)」という艶本を出した。雪鼎は女性も快楽に積極的であることを肯定し夫婦和合を説いたと。(聞き手畑律江)

続き)生活のための仕事以外に詩歌、音曲、絵画などを一生をかけて究めることが理想とされた。大阪では素人主義とも言える理念が発達し、本当の「粋(すい)」が重んじられた。俳諧狂歌などの文芸サロンも盛ん。誰もが(女性達も)身分や立場を離れて平等に交流する社会的ネットワークを結んだ。 about 12 hours ago from web
  
続き)文芸サロンには、「役者たちも俳名を持って参加し」というところに興味をもった。もちろん「俳名」をハンドルネームと読み替えることができるか、という問題意識においてだ。twitterもわたしに作家の方が話しかけてくれたようにそうした可能性を含んだメディアではある。 about 12 hours ago from web
http://twitter.com/noharra/status/9448743773 から


 夫婦和合が好きな江戸時代の思想家と言えば、増穂残口という神道家がいますね。
「森の余白」というブログから残口の言葉を2、3引用させてもらおう。

「凡人の道のおこりは夫婦よりぞはじまる。男女有り而夫婦ありと。其后神も仏も聖人も出給ふ事ぞ。しからば夫婦ぞ世の根源としれたるか。」(『艶道通鑑』)
 
「今の世も売女の中に金づまり、義理あひとはいへど、弐人心をみださで、刃に臥あり。脇目よりは狂乱のやうに笑ひ罵ども、死を軽んずる所いさぎよくあはれ也。これを笑ひそしる輩は、どふぞならば死んでみや。」(『艶道通鑑』)
http://blogs.dion.ne.jp/yohaku/archives/1138582.html

「我神化陰陽和合と祝ぐは、男女一双にして、高下尊卑なし。然るに女は男の奴(やっこ)の如く、何事も男にしたがふはずと思ふは、支那の礼格に迷いて、わが国の道をうしないたるなり。
(『神路の手引草』)
  
 そもそも人は一箇の小天地なり。天のみさかえ地のみはびこりて、立つべきいわれなし。天は覆い、地は載せてそむかず、一方不順ならば万物成就する事なし。男女の中に一毛も高下尊卑を論じ、私意邪僻有りて、天徳の覆いのみほこりて、地載の功をうしなはば、いかんぞ温淳の子孫を生ずべけんや。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p1

 うちのブログでも7年前に引用していたのでした。

残口は誠の根拠を夫婦の和においた点で、礼を第一とし親子の主従関係を中心とする倫理から、誠を第一とし夫婦の和合を中心とする倫理への転換がある、とする。この倫理観は、男尊女卑を排し男女平等を唱え、必然的に恋愛至上主義の立場を取る。宣長は恋愛に人間の真情を見たが、それは文芸を道徳から解放したに過ぎない。が、残口はそれを直接に実生活の恋愛の倫理として提唱し、その真情においては婚姻以外の恋愛も是認するという残口の思想を「破天荒の勇敢なる試み」として、氏は宣揚する。
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/work/zanko.htm

残口論の代表としては家永三郎「増穂残口の思想」がある。その要点は、以上であろうか。*1
神道ないし日本的なものを、儒教、仏教からいかに分かりやすく差異化するか?出世間の仏教に対し浮世を肯定する神道。主従関係を中心主義で堅苦しい儒教。男尊女卑の儒教に対し男女平等夫婦和合の神道。というのはまあ十分言えるし、分かりやすく開放的な感じで良いように思う。
というよりわたしはとにかく、男尊女卑で権威主義であることを日本的であると信じて疑わないところの戦後の愛国主義者の存在が、たまらなくイヤなのです! 粋から最も遠い奴らは日本的とか言う権利がないだろう。

*1:家永論文読んでません。