松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

デモ(民主主義)と「反日主義」

http://www.youtube.com/watch?v=Q8b2wivPsyE&feature=player_embedded
在特会id:toledさんをボコボコにしたビデオを(きちんとは見てないすみません)見て、反射的にでてきたのは、やはり怒りですね。近くにいたら(恐怖もあるが)「ばか、ばか」と子供のように叫びつづけたいと思った。
で、最初はボコボコにされたのが誰か知らない人だった。そのとき、私はニュースを聞いてもひどい話だなあとうわの空で思っただけで、2、3日経ちそのまま忘れてこうとしていた。しかしその固有名を聞き、はてなの人気者であるだけじゃなくわたしも一度あったことがあるその固有名だということが分かり、事件は俄然身近になる。
・・・サバルタン派としてはそこで身近になって、興奮してしまってはマズイのではないか、と一方で思いつつ。


で、今日はハイクである人が書いた文章の一部を引用して書いてみた。

「いましたよ、昔。軽い仕返しをDQN的な人に仕掛けた人は。で、結果突き飛ばされた。」
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%BE%8C

だからその、それはレイヤーが違うっていうか、世の中には政治というか民主主義というものがあって、デモもその不可欠の構成要素だと。(1)
そうだとすると、デモにおいて反対意見に暴力を振るうのは民主主義の常識を覆す行為なので、市民の敵として指弾されるべきだ。(2)
これは右とか左とか、排外主義の是非とかと違って、民主主義の常識にすぎない。イスラエルでは今回のようなできごとは考えられない。
デモを含んだ民主主義が素晴らしいものだ、と言っているのではない。ただわたしたちは民主主義という建前を捨てることができず、そうである以上、民主主義の最低限の常識は主張することにより定着していくものである。日本ではどういうわけか(天皇制のせい、という本質主義はとらない)、民主主義の最低限の常識が欧米とくらべ(ひょっとしたら戦前と比べても)低い水準だったが、それはおかしいと感じられていたので是正されていくべきである。
だれでもそう思うだろうと私は考えた。
by noharra 2009-09-30 21:25:17
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%BE%8C


さて、ハイクに上を書いてからある方のブログを読んで、まずいな、 と思ったのでさらに自問自答してみた。

 ブックマーク・コメントを見ると、「思想はどうあれ、暴力はよくない」的な主張が散見されるが、これはどういうことか。在特会の排外主義プラカード&シュプレヒコールは、在日外国人にとっては直接の恐怖だ。常野氏に対してふるわれた暴力に勝るとも劣らない暴力、どっちかだけ批判とかありえない。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090929/p1

私は「思想はどうあれ、暴力はよくない」とは主張していない。「思想はどうあれ、暴力はよくない」と言いたがる人は当事者性から逃げようとしているのだと思う。
全共闘の頃とか党派闘争が先鋭化していた時期ならやはり、toledさんのような振舞をすればただでは済まなかっただろう。彼は拘束、拉致され、一晩密室でいたぶられるだろう。(ひどい場合には死に至るリンチもありうる。)
「暴力はよくない」は間違っているわけではないかもしれないが無力である。緊張関係のただ中に介入しうるだけの思想的迫力がない。

私は「デモとは何か?」という問いを立てた。在特会による「子供っぽいリンチ」は、「拘束、拉致、総括要求」に比べて暴力的だとは言いきれない。ただ後者の方は「デモというものを尊重する」ことだけはできていた、と私の視点からは評価される。

「思想はどうあれ、暴力はよくない」とは、在特会の主張を肯定も否定もしない立場だ。私は在特会の主張には全面的に批判的だ。ただ「暴力はよくない」についてもいろいろな立論の仕方があるはずだと言っているだけだ。

極ごく一部の排外主義者(暴力主義属性付き)がいる。
それに対して、日本の社会全体が希薄ではあっても排外主義に汚染されていると認識される。
この認識が問題だ。批判しにくい。自民党民主党も行政もその一部が汚染されていることは否定できない。
ただ、無関心を良しとする風潮が、とか日本の社会全体が、とか言ってもいいのか。もちろん大衆に排外主義は浸透していっているかもしれない。しかし都会で働く多様な外国人は急増しており、その増加に正比例して排外主義が増えたのなら、“日本人が思想傾向として排外主義化した”ことにはならないと考えうるのではないのか。
“日本人が思想傾向として排外主義化した”あるいは“日本人が戦前からずっと排外主義である”と、言いたければ言えないことはない。ただそれを日本社会の急所であるかのように考える「反日主義」。それは違うのではないか、と思ってきた。
ブルジョアジー(財界)は自己の資本主義的利益のために、いろいろな活動を行う。メインは、最近ちょっとソフトに仕立て直した新自由主義インターナショナリズム)だろう。中国との協調も大事でありそのためにはチベット人の人権など無視する。たとえばこうした社会においてかなりの比重を占める風潮を「反日主義」は正確に批判することができない。

(mojimojiさんの文章は議論の枕として引いたものです。mojimojiさんの意見に対する批判ではありません。)