松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

アマテラスを越える物

日本とは何か?という問いに「うまし国として神からあらかじめ祝福を与えられた国だ」、という答え方がある。
この構造自体は他の国でもだいたい同じだろう。むかしは各地に地域神や地霊、聖人などがいて祈る者に加護を与えてくれた。


佐藤弘夫さんによると、日本古代の神は「祟(たた)る神」だった。

神は何の前触れもなく突然出現して、人々にある命令を下した。その指令に従わなければ、人は神の下す苛酷な災いを避けることができないのである。*1

 父景行天皇*2の命をうけて東国平定に向かったヤマトタケルの行くところ、沼・水道・坂・山・川といったあらゆる場所ごとに、一柱ずつの神がいた。(略)
 ここに登場する神々は、山や大石や巨木など霊異を感じさせるあらゆる存在のなかに神霊の姿をみた、太古以来のアニミズムの名残とも考えられる。いずれにせよそれらが、氏族の守護神とは違って特定の血縁とは関わりをもたないかわりに、具体的な地と切り離すことのできない存在であったことは見逃せない。古代日本の神は各氏族の守護神に加えて、限られた境域を「シメ(閉)める」川や坂や山などの地域神からなっていたのである。(p55 同書)

まあこれはふつうのRPGを考えると分かり易い。モンスターなどとそれを呼ぶのは帝国主義的感受性であり太古からそこに存在した地霊の落ちぶれた姿なのだ。
だだそのような地域神に対して、より普遍的な国家神が登場する。それが前回(8/5)取り上げた北方ユーラシア系の天孫降臨神話であり、それをむりやり皆に受け入れさせるためのたくらみが、それに「アマテラス」という名前を貼り付けることであった。


ここで第六天魔王の国譲り神話をちょっと紹介したい。

 仏法を何より嫌う第六天魔王は、日本にそれが広まることを防ぐため、列島を支配していた。父母であるイザナギイザナミが「開発」した国を、魔王に押しとられてしまうことを心安からず感じた天照大神は、「ここは我が父母の開いた土地である。こんな狭小の地はあなたにとってはどうでもいいだろう。元のように私に預けていただきたい」と述べて、その返還を求めた。さらに仏法の弘通を危惧する魔王に対し、「私が魔王の代官として、国の主となって仏法を弘めさせなければ、いったいだれが弘通するというのか」と説いて、偽りの約束をかわし、日本を魔王の手から奪い返すことに成功するのである。
*3

この話からは意外感とユーモラスな印象を受ける。日本神話の至上神であるはずのアマテラスが、ここでは圧倒的に自分より強い第六天魔王の前で嘘をつくといった姑息な手段でもって日本(狭小の地)の管理権を奪い返すという話だからだ。


上の文では日本を狭小の地と呼んでいてそこも意外な感じがした。「日本=狭小の地」という感覚は敗戦や強大な西欧文化に対するコンプレッスクという文脈に結び付いたものとイメージされるからだ。しかし、日本を「粟粒を散らしたような小国」とするのは中世ではごく当たり前のレトリックであり認識だった。ぞくさん-へんち【粟散辺地】。左のgoo辞書の
「日本のことを中国やインドのような大国と対照させて」というのは厳密にいえば誤りだ。「世界の中心には須弥山がそびえ、それを同心円状に取り巻く山脈の外側には、東西南北4つの大陸が広がっていた。こうした世界観からすれば日本は、南の大陸(南閻浮提)の東北に広がる大海中にある粟粒のごとき辺境の小島にすぎなかったのである(辺土思想)。」(p85)


1270年代から、起請文などを中心に天照大神が日本の「国主」であるという表現が急増してくる。*4 古代のアマテラスは、その子孫である日本の天王を守護する場合だけこの世界に干渉する存在だった。それに対し中世の天照大神は、つねに現実世界を監視し、そこへの直接的な介入も厭わない存在と考えられた。*5
つまり、皇祖神たる天照大神とそれを中心とする単一のコスモス(「神国思想」)が日本を覆いつくしていく時代だったのだ、と結論付けたくなる。
しかし佐藤氏はそうではないと言うのだ。すべての凡俗を救済すべき誓いを立てた菩薩たちを中心においたコスモロジーにおいて、天照大神すらも他の神々と同じく大衆に仏法を理解させるという目的をもっぱら担うところの“仏の垂迹”にすぎなかったのだ。つまり、天照大神は確かに日本国主だがそれはそのエリアを一時的に任された代官のごときものにすぎないわけである。*6


まあそんな風に、アマテラスも700年頃変身を遂げたさらに500年ほどあとさらにかなりの変貌を遂げることになりました、という話。


1889年大日本帝国憲法序文(告文)は「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク」云々と始まっており、120年前の文章としてはずいぶん神がかったものでした。近代国家の宣言というものが逆に絶対精神を要請してしまうこと、たかがアマテラスごときを世界の至上神にすることを恥じないというレトリックがなぜ許されたのか? ここにはかなり大きな歴史の皮肉があると言えましょう。

*1:p19 「アマテラスの変貌」

*2:第12代

*3:同書 p135 伊藤正義「熱田の深秘」という本からの引用のようだ

*4:p134

*5:p135

*6:第六天魔王の話もこうしたコスモロジーを別の面から述べた物と理解して欲しい