松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

精神の歴史 近代日本における二つの言語論

田中 希生さん*1の立派な本が、本屋さんにあったので、見てみたらなかなか面白そうだった。*2
精神の歴史 近代日本における二つの言語論  5600円+税
ISBN978-4-903426-25-9 C3021
紹介文を引用してみる。

「言葉とは、すべて出来事の表象(リプレゼンテーション)にすぎない」。ポストモダニスト実証主義者も共にこう言う。しかし、これは超歴史的で本質的なものなのか?言葉と出来事とが実態として結びついていた時代は全くなかったのか?本書は、(略)日本近代史のなかに、言葉がその使用者の意図を越えて作動し、あるときには人間の生殺与奪を握る現実的な力ともなってしまったという姿を見出しながら、言葉と精神の格闘の歴史を描き出す。
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-903426-25-9.html

http://www2.kpu.ac.jp/letters/hist_studies/doct_diss/005.htm
上記にはこの本の元になった博士論文?の要旨がある。


それによると「リプレゼンテーション概念に依拠した認識論的言語」観が支配的になったのは大正期以降だ。
「リプレゼンテーション概念に依拠した認識論的言語」のうちでも現在流行っているのはいわゆるポストモダン的言語観。

とはいえ、本稿は〝言語論的転回〟には与しない。「テクストの外部はない」というような、あるいは構造主義言語学を端緒とするような、〝言語論的転回〟と呼ばれる人文科学上の特異な視座は、言葉を、事物とは切り離された、任意の要素―シニフィアンシニフィエといった要素―の諸関係の体系的総体として把握しようとする。存在に対して、言葉は、認識の側にあり、つねに再現前化の装置として理解されることになる。つまり、言葉は、事物の表面に塗り付けられ、むしろ事物を隠蔽してしまうような、一種のリプレゼンテーション、ということになるわけである。こうした言語学上の考察は、あらゆる言語表象を、事物の側からではなく、事物を認識する側にひそむ権力から語る視座を可能にする。かくして新聞や教科書、その他政府の言説、あるいは小説や演劇といった文化的な言説にいたるまで、ありとあらゆる言語表象は、権力に、とりわけ国民国家に結びつけられて語られるようになった。もちろん、こうした考察のすべてが間違っているというのではないし、また国民国家を、リプレゼンテーションの産物と考えるかぎりで、つねにこの視座は正当性を保つ。だが、こうした考察は、結局のところ、言語がすべてリプレゼンテーションである場合にのみ成立するのであって、どう考えても、リプレゼンテーションがいかに形成されるかを説明するものではない。逆にいえば、構造主義言語学国民国家論は、言語をすべてリプレゼンテーションだとみなす前提なしには成立しないのである。
http://www2.kpu.ac.jp/letters/hist_studies/doct_diss/005.htm

 なんでいまどき(60年も遅れて)、反反日原理主義反日原理主義が流行るのか、不思議だった。「新聞や教科書、その他政府の言説、あるいは小説や演劇といった文化的な言説にいたるまで、ありとあらゆる言語表象は、権力に、とりわけ国民国家に結びつけられて語られるようになった。」という流行のせいという側面もあるのかな、と気づかされた。言葉を大事にしてはいけないという思想はかえって、日本とか反日とかいう最低のものを最終審級として呼び込んでしまう??


「国体」という言葉をめぐる断片が気になった。*3・・・国体とは実体ではない。日本精神とは何かを問い続けるそのような実践のことだ。・・・というようなことが書いてあった。・・・問いの構造を主体的にひきうけること・・・「認識」という主体的実践・・・
(以上はわたしのためのメモ)

*1:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081219#p1

*2:高かったので買うのは止めたが

*3:「国体護持」の国体