松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「「反日上等」論議について(1)前半」批判

ええとまず、深海魚さんの下記記事には全面的に同感するものだ、わたしは。(これについてはいつか書きたい)
http://sillyfish.blog2.fc2.com/blog-entry-723.html
でその点では共通しながらなお、金光翔さんには全面的に批判的である。(これはまあ微妙な立ち位置ではある。)

日本から明日にでも追い出されそうな外国人は勿論のこと、在日朝鮮人や在日中国人も、「反日上等」とは言いにくい。だから、日本人こそが、自らの「特権」を行使して、「反日上等」(という意味内容の発言)を言ってくれるようでないと困る。現在の日本国家の外国人管理体制、日本社会の差別が外国人にとっては大きな問題なのだから。日本人の「特権」をめぐる議論が、まるで大昔の新左翼のような、「内面」の問題になっている。
http://watashinim.exblog.jp/9975529/

わたしには金光翔さんの議論こそが、「大昔の新左翼のような「内面」の問題」にみえたのだが。というよりも「もっと昔の左翼のような不可侵の正義の根拠(への信仰)」の問題か。
反日上等」という言葉をどのような定義において使っていきたいのか不明確である、とまず思う。
生活のレベルで日本人は排外主義の被害に会うわけではない。それに対し、現在の日本国家の外国人管理体制、日本社会の差別は、外国人にとっては大きな問題だ。
この差異をそれ自体として、大文字化すべきか、できるか? という問いが根底にある。金光翔さんはこの問にYESと答えるので、「反日」という言葉を使うわけだ。
この社会で朝鮮人/わたしたちという言葉を使えないといった幼少からの生きがたさの問題から、現在の種々の社会問題までを一挙に貫くことができる力をもった言葉である、「反日」は。
で意外なことに、こんなふうに抽象度をほんの少し上げるだけで、日本人にとっても十分受け入れることのできる言葉になるのだ。
反日」という言葉は魔力を持つ。でそれに対しどういう批判をしていこうとするのか?
日本人にとって反日は〈自己否定〉の一種である。自己の常識、存在様式に疑問を持ち他者に対しても開かれたそれにしていかなければならない、とする。そのような立場に立ったとき、反日というのはそうした困難な終わりのない問いに、ある早急な答えを与えてしまっているもの、と考える。


反日」と表象される言動を行なっている外国人と、「反日」と表象される言動を行なっている日本人は、連帯しなければいけない、というのが金氏の主張であるようだ。
で、外国人というものは「反日」と表象される言動を行なってなくとも、差別主義国家である日本やその尖兵(在特会など)によって、容易に「反日」と表象される。したがって日本人は「反日」と表象される言動を行うことをためらうべきでない、という論理だろう。

●「在特会反対デモで「反日上等」という旗を掲げると、外国人に迷惑がかかる」ということであれば、「反日上等」と言う外国人は、「反日上等」と言う日本人よりも一層迷惑な存在だろう。例えば、日本の歴史認識の是正や戦後補償の実現を訴える在日朝鮮人は、日本の一般世論からすれば、「反日」なのだから、「反日」をやめろという主張は、こうした在日朝鮮人への、声を控えろ、という社会的圧力を強めることになるだろう。

ああ、これが彼が声を挙げるしかないと考えた理由か。
日本の歴史認識の是正や戦後補償の実現を訴えることはそれが在日朝鮮人によってなされようと日本人によってなされようと、「反日」ではないでしょう。
だいたい反日という言葉を使うのはネット右翼などです。彼らは日本の国家意志を代表した(例えば)河野談話反日とよびます。(まあ正確には国家意志の一側面を、と呼ぶべきかもしれませんが)。馬鹿が何を言おうがとりあうべきではありません。ところが金さんはネット右翼の言動と入管などの制度的意志と、一般国民のあいまいな意識を、一緒くたにして、日本社会に「差別主義的」という本質規定を与えるのです。
ここで、「日本社会=悪」ですので、「反日=善」となります。日本には日の丸も天皇もある、日本は反省していない、本質がそこにあるとは正しい指摘であり、それに反論するのは悪しきナショナリストだ、という意見もあるでしょう。


分かり易い論理ですが分かり易すぎる、つまり平板だと言えます。根本的論点として
日韓併合以来の中国等侵略の歴史を最低限総括して国民の共通認識とすることが日本はできていません。戦争はダメで平和主義で行きますということばかりが強調されさらにその平和主義も捨て去られ、なんだかわからない状態になっています。そうであるとしても、侵略主義、差別主義社会だ、日本は、と日本社会を本質規定してもいいでしょうか? マズイと思います。

日本国家は、過去清算抜きの大日本帝国の継承者である。
その土台の上で、「ウヨク」または「サヨク」は、「平和国家」日本という仮面を、仮面と意識せずに、掲げているわけである。
http://watashinim.exblog.jp/9980401/

最初の文章には反対だ。だが第二文には興味深い点もある。
「戦後左翼の最大の思想である9条原理主義は、「近代の超克」の左翼版である。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090702#p1 」と書いたわたしの認識に近いところがあるからだ。
予定に反し、まったくの乱文になってしまった。やれやれ。
まあぼちぼち考えていこう。

反日上等とは?

10年前の林望さんの文章によれば、「警視庁上等」という落書きの意味は、下記。

"ここから更に進展して「警視庁上等」となると、暴走族同士の抗争という範囲を逸脱して、「なに、警察だ、上等じゃねえか、警視庁のポリ公が怖くてバリバリ走れっかよ」と警視庁に喧嘩を売っている形である"
http://www.sanseido-publ.co.jp/booklet/booklet133_hayasi.html

したがって「反日上等」とは、「反日」という言葉を常用するネット右翼に対して「なに、反日だ、上等じゃねえか、非国民と言われることが怖くてバリバリ生きれっかよ」と反発しているわけだ。ただ問題は、「一般の日本人」も潜在的差別者としてネット右翼の共犯者と(すこしだけ)見なしている気味がある点だ。
私は「反日」には興味があるが、「反日上等」にはあまり興味がない。