松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

神道というもののもっとも上質で厳粛なものがきちんと

天皇の神事の姿は初めて見るものではないが、年間30回という、さすが神主の元締め的なお姿にはやはり畏怖した。侍従だったか、明仁陛下は神事で二時間+二時間の正座をするために、あのお年で今でもテレビは正座で見るとのことであった。明仁陛下は根っからの近代人である。が、そのなかに、おそらく神道というもののもっとも上質で厳粛なものがきちんと居座っているのだ。そしてそれは昭和天皇にもあった。どこから来た思想なのか、王道というものがある。

 この精神的な力というか、信頼が日本を支えているのかもしれないと思うと、私はなんと言っていいかわからない。ここには、そこいらの頭でっかちの右翼だの左翼だのが見えないものがある。それでいて農協のおばさんはきちんと見えている。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090411

「ここには、そこいらの頭でっかちの右翼だの左翼だのが見えないものがある。それでいて農協のおばさんはきちんと見えている。」これは小林秀雄ですよね?

唯、近衛首相が、(略)「夫々の立場に於て臣節を尽す」と言ったのは、(略)唯ひとつきらきらと澄み渡っているような気がした。これは主張や意見や原理などでなくただ悲願であると思われ、首相のこの詩人的な悲願がややもすると又種々の不純なものに絡まれてしまいそうな危うさをおぼえさせられたりするのであった。
「有心」蓮田善明 *1


神道というのはひとつの信仰であり、日々新しいそれをfinalvent氏が今日発見し感動することによって彼の存在様式が一瞬リフレッシュされたのなら、彼にはそうする権利があるはずだ。そうなのかもしれない。

*1:p354 筑摩書房 現代日本文学大系61