松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

半ば日本人であった台湾人の生涯

「ある意味の広義と曖昧になるけどという限定で日本人でもある」という形容詞を用いて、id:finalvent氏はデマゴギーに近いことを書いていると思った。当時の「ある意味における日本人(である台湾人)」の矛盾した存在はむしろ「日本語により思想を学ぶ事により反抑圧に目覚め立ち上がる」といったものだった(若いインテリの場合)はずなので。
下記ブログで、葉盛吉さんという1923年生まれの「台湾人」について、sleepless_nightさんが書いておられる。わたしの思う、半ば日本人であった台湾人とはこのようなものだ。

1923年(大正12年)、葉盛吉は生まれた。
一家は没落により離散し、盛吉は叔父夫妻に引き取られ、叔父の勤める製糖会社の社宅で育てられる。
 叔父は師範学校を出て日本の教育を受けており、日本人が経営する製糖会社にも多くの日本人社員がいたため、付き合いはなかったが、社宅では日本人に囲まれていた。
 だが、1930年、満7歳で公学校へ入学した葉盛吉は台湾人の子どもに囲まれる。
 しかし1936年、台南一中に入学すると逆に、クラスに台湾人は3〜4人しかおらず、日本人に囲まれる。
 自分は日本人なのか台湾人なのか。
(略)
 葉盛吉は中学で日本人にかこまれ、差別・侮蔑にもあい、日本人と戦うか・日本人になるかの二者択一から、積極的に日本人になろうとし、学業に打ち込み、学内2位の成績で卒業する。1941年には日本名に葉山達雄に改名する。
 競争の熾烈な台湾を避け、日本内地の岡山六高を受験するも2年連続失敗、3年目1943年に仙台二高に合格。二高の寮生活で再び民族問題に向き合う。

 八紘一宇の大理想による統一やユダヤ陰謀説に熱中したりしたが、やがて両方ともを批判し、抽象概念の下で行われた弾圧へと目をむけるようになり、(東北への愛着と同時に)中国(台湾)へ意識を向けるようになった。
 敗戦後、東京医学部へ進学していた葉は台湾へ帰り、台湾大学医学部へ編入した。
 葉は祖国中国への期待、理想の実現を夢見た。
(略)
 1947年には2・28事件が起きる。台北でヤミ煙草を売っていた林江邁を国民党の密輸取締官が発見し、煙草だけではなく、売上金まで没収しようとしたため林がすがりついたのに対し銃で殴りつけた。これを見ていた通行人たちが取締官を取り囲んだため、取締官が発砲し死者がでた。これまでの国民党の横暴に怒りが積み重なっていた台湾人は警察・憲兵・専売局・台湾行政長官公署を包囲。群集に長官公署から発砲され死者を出す。抗議は台北から全島に広がった。最後は軍が鎮圧に乗り出し1万人以上が殺害された。
 インテリ学生たちは国民党の暴政から対抗的に第二党であった共産党へ加担する。
 葉も1948年に台湾大学共産党地下組織に参加し、学生自治組織を使い活動した。
 そして1949年大学卒業し結婚して医師としての生活をスタートさせたが、1950年朝鮮戦争による国民党の赤狩りで逮捕。処刑された。
http://may13th.exblog.jp/7323093


sleepless_nightさんは、「半分日本人である生き方」について他にも何人かの例を上げておられる。
そういえば最近、増田というところで、異常な盛り上がりがあったのも「半分日本人である生き方」についてでした。矛盾かっとうを背負わされている側だけに「カムアウトする/しない」責任を押しつけているのではないかという、F1977さんからの質問に向き合うためにも、より矛盾がくっきりしている日帝時代の台湾の事例を丁寧に読み取っておくことは必要でありましょう。
http://d.hatena.ne.jp/F1977/20090417/1239977663

増田@在日外国人2世・3世ライフヒストリーまとめ
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20090416/p1

(4/19記)