松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本人がアジア人であること

について、【「もう遅すぎますか?」−−初めての韓国旅行 水村美苗】という文章を読んで、感想を書いたことがあった。
水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』がネット界隈で話題となっているらしい。(こちらとかで ただし、以下わたしのブログには日本語/英語という議論はでてこない。) 水村の言語論の前提になっている(かもしれない)一つの情景(韓国の高級ホテルのラウンジで肩を出した若い女性がピアノを演奏しているのを聞きながら)が出てくるエッセイ、についてたしか熱心に書いたんだけど、何を書いたのだったかと、と思い出すことができなかったので、検索してみた。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041220#p1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041223#p1
忘れていた要点は次のようだ。

韓国人と日本人は似ている。であるのに日本人は欧米人と日本人の類似性にばかり目を向け、韓国人と日本人の類似性に気付かない。

しかし、それにすぐ続けて水村は言うのである。「今となってはなんと旧い世界観かと人は言うであろう。すべてはここ十五年ほどで音を立てて変わってしまった。ことに、中国という国が世界市場の中央舞台に躍り出たのが決定的であった。」ソウルの高級ホテルのラウンジの隅に座って、三人の若い女の人たちが演奏するグローバル・ミュージックを聞きながら、水村は言う。

三十年前の私は自分が東洋人であるとも知らずにパリを歩いていたが、今、それは、歴史が否応なしに日本人に教えてくれるようになった。残るは、その歴史が教えてくれたことを、いかにこの身に引き受けるかであり、それは、いかにこの先歴史にかかわっていくかということである。

 今になっても、日本人は、アメリカやヨーロッパに住んでみないと自分が東洋人であると本当にはなかなか、分からないものではないでしょうかね。