松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ハッキョとトショガンで学ぼう

ハッキョは学校の朝鮮語読み。図書館は中国語でもトショカン*1。もちろんここで「中国語でも」というのはおかしいので図書館=図書館である以上、それは中国語読みの方が本家ととりあえず考えておいてよい。とにかく、日本語/韓国語/中国語といった国家/国語システムによって分断化された思考システムから抜け出すことが大事だ。厳密ではない同一性がそこにあることを確認し育てていかなければならない。*2


ハッキョとトショガンで学ぶべきことは、東アジアの漢字と文化である、それはわたしたちの先祖が共有していたところの。

基本的には、漢字は国字であること、国語として訓(よ)むべきものであるとする立場から出発するのでなければならない。(白川静

 わたしたちの社会は、分かり易い欲望を肯定し、学力や金銭といった数字を物神化するというありふれた倒錯から脱却することができない。その世界を相対化するためにも、膨大な漢字による文化的集積を参照しうる。なによりもまずそうした問題意識を確認しなければならない。

*1:ないしトショガン 正確には知らない

*2:朝鮮語も中国語も外国語として学ばれる、それは正しいだろう。しかし共有部分についてもっと強調されてよい。それぞれの国家−公立学校はそれを望んでいないのだから。