松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。

子(し)曰(いわ)く、学(まな)んで時(とき)にこれを習(なら)う。また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方(えんぽう)より来(き)たる。また楽(たの)しからずや。
http://kanbun.info/keibu/rongo0101.html

友が遠方より来るのは近くに友がいなかったからだ。学ぶことの喜びはそれ自体のうちあり、立身出世できるといった万人むけの徳(得)があるわけではない。*1少数のひとたちだけがこのひそやかな喜びを感受し学びつづける。

たとえば、ぼくが テストで よい点を とるために うちで べんきょうしてたと します。そんなとき、「やねごんくん、あーそーぼー」と さそってくれるのが、ぼくにとって だいじな おともだちです。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080809#p1

 この文章は、学ぶこと=テストでよい点をとるため という誤った思想を強調し、学ぶ喜びそれ自体を感じる可能性から人を疎外してしまう、ともいえるのではないでしょうか。学ぶ喜びそれ自体とはそんなに難しいものではない。逆あがりができた喜びも方程式が解けた喜びも水泳で早く泳げた喜びも本人に取ってはさほど違いはない。というか自分のやることに対する自分なりの評価を繊細化することがより良く生きることだろう。儒教というと反省ということばかり語られがちだが、反省はむしろ喜びのための手段である。


「やねごんくん、あーそーぼー」という誘惑を、野原は否定しているわけではない。やねごん君は「テストでよい点をとるための勉強」というものをしているので誘惑されて当然である。

*1:人(ひと)知(し)らずして慍(いきど)おらず、また君子(くんし)ならずや。