松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

反ホモソーシャル・マッチョという生き方

 しごとよりも ずっと ずっと たいせつなものが あるのです。それは らくを すること、たのしく すごすことです。その じゃまをしているのが、「いっしょうけんめいに やらなければならない 事情」という やつです。そういう「事情」を やっつけるために ともにたたかう。それが ともだちと いうものでは ないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080809#p1

「いっしょうけんめいに やる」というスタイルを否定することは私には難しい。学校と教師を馬鹿にするために「いっしょうけんめいに やる」というのもいいんじゃない。ただその場合企業では上司から評価されてしまったりする。
とにかくわたしの場合、ともだち=クラスメイト、同僚というものを共同性として捉え、自己がそれと別の場所で対立しているという図式が強すぎる。
孤立からマッチョになる。そしてホモソーシャルを否定してまったき孤独へ。そして神あるいは(朱子学的)天に救いを求める。
・・・そういう生き方を否定する必要もない。


しかし、実際は、儒教的主体の場合も私の場合も「主人*1」として人の間で幾ばくかの権力を所有しまた他者からの愛情〜恵みを受け入れていることによって生き長らえているのだ。孤独とか言ってないで交流する方が楽しいし健康であることはいうまでもない。

(この文章は昨日の続きでもある)

*1:笑い