松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

広州コミューン

 広東コミューンともいう。1927年(民国16)12月中国共産党の指導下に武装蜂起した兵士と労働者が3日間にわたって広州市を占拠した事件。彭湃が海豊・陸豊にソヴィエト政権を樹立していたとき,国民党系の張発奎の支配する広州市内で張太雷・葉挺・葉剣英・聶栄臻(じょうえいしん)らの率いる兵士と労働者が蜂起した。12月11日に決起して当日中にほとんど全市域を占拠。3万余名の大衆集会を開き蘇兆徴を主席とするソヴィエト政権樹立を宣言し,軍閥と国民党の打倒,8時間労働制・土地国有・大資本家の財産没収などの綱領を採択した。だが,決起後の行動計画が不十分で,武装労働者も少なく,農民軍の来援も実現しなかった。12日にはイギリス・アメリカ・日本・フランスの軍艦に支援された国民軍や保安隊などの反撃が開始され,形勢不利となった決起隊主力の教導団は,13日海陸豊に撤退したが,張太雷を初め蜂起軍兵士や労働者ら5,700名が犠牲となった。この敗北は瞿秋白(くしゅうはく)左傾路線の誤りによるものといわれている。
http://www.tabiken.com/history/doc/G/G094L100.HTM

 インテリは誰でもパリコミューンという名を知っているが、広州コミューンについてはどうだろう。恥ずかしながら私は知らなかった。
仮りに知っていても「左傾路線の誤り」という評価以上のものではないと平板化し処理してしまっているのなら知らないのと同じ、とかいうこともできるが、まあそれにしても知っている(大学とかで教えられ知っているべきだとされている)こととそうではない、知らなくても良いとされていること*1という落差こそが、わたしたちの「知の構造」、そのオリエンタリズムを示しているのである。それは明らかだ。

*1:例、シェラレオネの悲惨、中央アフリカの悲惨