松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本人が読むべきたった一冊の本

地球上に無数の本が溢れていますが、日本人が読むべき本はたった一冊しかありません。
元ネタ:http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/d6b8b044ed456f48d41afcc51454376b

アリランの歌
アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)

が、それです。

1919.3.1に朝鮮半島で何があったのか?その1ヶ月後に中国で何があったのか? そうした大衆運動にたちあがったひとたちはある人がいうようにテロリストだったのか? 

 ソウルの近くに、アリランと呼ばれる丘がある。李王朝による圧政の時代、この丘の上には大きな一本松が立っていて、何百年もの間公式の刑場となっていた。何万もの囚徒がこの口授のごつごつした枝につるされ、なきがらは崖の上にぶらさがった。盗賊もいたし、普通の犯罪者、反政府的学者、国王の政敵や敵対する一門の者などもいたが、多くは圧政に抗した貧農たちであり、暴政と不正に対して起ちあがった若ものたちであった。この歌はそうした若ものの一人が囚われの日々の間につくり、重い足取りでアリランの丘を上って行くときうたったことになっている。人々がそれを聞き覚え、やがて誰が死刑になる時にも、その喜びと悲しみへの別れの心をこめてうたうようになった。(略)
アリランの歌」は朝鮮の悲劇を象徴することになったのだ。歌の意味は幾多の障害をのりこえた末にあるものはただ死ばかりであることを表すもので、生のうたではなく死のうたなのである。ただし、死は敗北ではない。多くの死から勝利は生まれよう。
(p55 同書)

アリラン」という歌は日本人にも広く知られている。そしてそれが朝鮮の悲劇の象徴であることも。問題は〈悲劇〉の解釈である。ありきたりの悲しみとか恨(はん)とかに平板化されてしまったイメージが、すでにそこには成立しているように思う。死=生きることとはどういうことか、を自己身体を削って認識することなく、観賞者として人生に向き合うことが可能であるかのような奴隷の錯覚がそこにはあろう。
死は恐怖であるので逃れたいと誰しも思う。しかし死が敗北でるかどうかは別の問題だ。死は敗北ではない。死を敗北だと思い、闘いに立ち上がることを馬鹿げたことだと判断するそうした集積が、わたしたち総体の負け犬化、すなわち敗北に他ならない。


三・一独立運動は東アジアや日本の近代史の1項目にすぎない。なぜそれを知らなければならないのか。それは「大東亜戦争の敗北」をどのようなものとして受け止めるか?に関わるからである。

中国大陸への侵略は侵略だったのか?という愚かな問を私たちが切り捨てられないのはどうしてか。思考の最終基準として、日本ー国家ー帝国主義という審級しかもっていなければ、その問には答えられない。戦後の平和と民主主義は、遂に日本ー国家ー帝国主義という審級を越えるものではなかったのだ。
侵略とは何か? 
最新鋭の兵器で武装し近代的に組織された日本軍と誰が闘ったのか?

 刻一刻、絶望的な懐疑と焦躁にとらわれてゆく兵士たちを、なおかつ歩一歩、前進させていった力は、いったい何であったのか。上海の市民−−それも彼ら兵士たちと同じように黄色くしなびて貧しい労働者や失業者、それに学生たちであった、と説かれている。

下の記事ではこのように書いている。普通の市民が立ち上がり闘い続けるときそれに敵対する者たちは侵略者と呼ばれる。市民が立ちあがり闘うということを、なんとか自分の心で理解することがなければ、その人は世界史と無縁なまま死んでいくことになる。

 こうしてわれわれ*1は仕事にかかった。雨が降りつづけて何週間もやまず、午後はほとんど毎日ろうそくの明りの下で、私は指が痙攣して続けられなくなるまで彼の話を書き取った。はじめ彼の英語はつかえてのろかったが、すぐにおどろくほど流暢で表現も豊かになった。(略)
 話が核心に及ぶにつれドラマティっ区で面白くなってきた。彼の経験の幅広さは驚くべきものだった。話の内容は朝鮮、日本、満洲にとどまらず、中国革命の胸おどる場面にまで及んだ。(略)
 延安のあのみすぼらしい部屋で己を語るキムサン(金山)の単純で平静な様子を思い起こすとき、彼の体験したほどの厳しい試練を哲学的客観性を保ちながら生き抜き得るものが、アメリカとイギリスの知性の中にどれほどいることかと考える。金山は理想主義的な詩人にして作家の魂を持つ感じやすい知識人の身で、最も醜悪最も乱脈血まみれなわれわれの時代の大混乱の一つに投げ込まれたのであった。もう何の幻想も残されていなかったがシニックではなかった。すべてをあるがままに受けとめながら、なおかつその変化・発展を確信していた。苦難や敗北さえ、彼のヴィジョンをくだかぬばかりか、彼を鼓舞してさらに深く物事の意義を考えさせた。彼は客観的事実の主人であって、主観的言説の奴隷ではなかった。
(同書 p47)

 闘い、多くの死、飢え、衰弱、投獄、拷問、裏切り・・・とどこまでも続く苦難*2

 ただ一つ、重大なことがあるのを知ったーー大衆との階級的結びつきを確保することである。大衆の意志は歴史の意志だからだ。しかしこれは容易なことではない。というもの、大衆は暗く沈んでおり、行動にあらわすまでは単一の声で語らぬからだ。ささやき声、言葉にならぬ声に耳を傾けなければならない。個人や集団は声高に語るので、それにはかきまわされやすい。しかし真実はごく小さな声で語られるのであって、叫び声によってではない。大衆が小さな声に耳をかす時、彼らは銃を手にする。老農婦のささやく金箔の気配だけで十分なのである。真の指導者はよく利く耳と堅い口を持つ。大衆の意志に従うことのみが、勝利に至る道である。(同書 p358)

 今日大衆の意志を最も真剣に聞き取ろうとしているのはマーケターだろう。大衆の意志は肯定されるべきあり消費資本主義も否定されるべきではない。しかし消費だけを大衆は望んでいるわけではない。現在日本では特に消費以外の領域にただよっているあてどのない思いの存在を誰もが感知しながらアクセスできずにいる。
 私にとって闘いとは何か、それを実践していく者が歴史を作っていくだろう。

*1:朝鮮人革命家(仮名)にアメリカ人女性ニム・ウェールズがインタビューする

*2:ほんの少しのだが印象的なロマンスはあるが