松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

一瞬の上海コミューン

7年前に書いた文章(引用の多い)を再掲しておきます。
(野原燐 2001/08/20 22:19)

昨日は、上野英信の『天皇陛下万歳−−爆弾三勇士序説』という黒い表紙の本を読んでいました。ちくま書房、1972年。上野氏と言っても、今では知っている人もいないでしょうが、1960年代に急速に衰亡していく九州の炭鉱地帯に取材して、『追われ行く抗夫たち』『地の底の笑い話』などの本を書いた人。森崎和江などと同じ<サークル村>の系譜に属するひとだろう。

さて、今日は天皇についてでも三勇士についてでもなく、上海事変について少し書いて〜この本を引用して見よう。

 1931年9月日本は満州事変を引き起こした。続いて、その翌年1月28日には、上海事変を引き起こします。
満州事変は、特派員エドガー・スノーによれば、「単なる鬼ごっこと占領」だった。上海事変についても「他の人と同様に私もまた中国人は闘うまいと思っていた。」しかし、実際には“ほんものの戦争”になった。「いままで、ほんとうの戦争などやれない傭兵だと、大抵の外国人から思われていた中国将兵の実力を、私はこの戦争ではじめて知った。」とスメドレーも言っている。

日本軍と闘ったのは、蒋介石の統帥下の第一九路軍、蔡延[金皆]軍でした。約三万五千の歴戦の精鋭にわずか1,500の水兵で挑んだ海軍の塩沢提督の無謀を批判するひとは多い。だが意外にも、この本の著者上野英信は 塩沢の判断には合理性があったとする。
その根拠はこうだ。
一九路軍は疲れ切っていた、兵士たちの給料は10月以来ほとんど支給されていなかった、兵士たちの幹部に対する不信と敵意は非常に高い。したがって一旦戦端が開かれるや、彼らは内部矛盾をさらに高め瓦解していくだろう。

ところが、彼らは蒋介石の徹底無抵抗と迅速な撤退という命令を無視し闘いはじめ、そしてあらゆる困難を乗り越えて闘い続けた。
そこには別のファクターが働いたのだ。

上野は葛琴という無名の女性作家の『総退却』という作品から引用する。


 刻一刻、絶望的な懐疑と焦躁にとらわれてゆく兵士たちを、なおかつ歩一歩、前進させていった力は、いったい何であったのか。上海の市民−−それも彼ら兵士たちと同じように黄色くしなびて貧しい労働者や失業者、それに学生たちであった、と説かれている。

「体を蛇のようにくねらせ、銃の上で手をびくつかせながら、寿長年は、大勢の人が自分の後から突き進んで来ていることを、鋭敏に感じとっていた。ただそれは久しく起居を共にした、同じ部隊の仲間たちではないようだった。彼らの力強い感動的な喚声には、聞きなれない方言が含まれており、紛れもなくそれはこの地元の方言だった。それこそ、上海の失業労働者たちの革命義勇軍だったのである」
「“ドド、ドドド”寿長年は身をよじって、その響きに目を注いだ。きわめて重量感にみちたものが、飛ぶように通過していった。それは上海の学生、労働者と市民たちの救護隊だった。彼らは熱烈にこの戦争を支持し、昼となく夜となく、砲火の中に立ち現われるのだった」
「この数十里に及ぶ長い防衛線の背後には、なおひきもきらずに新しい労働者たちが集まって来ていた。誰一人として、自発的に戦闘参加を希望しない者はいなかった。彼らがこれほど毅然としていることは、かつてなかった。彼らの雇い主であるボスに逆らって志願し、頑強にこれらのボスと闘ったあげく、漸くの思いで数百里の道を歩いて来たのである」
(以上、同書99〜100から引用)


ここを読んでなんだかパリコミューンを思い出してしまった。
武器を持たない市民、労働者、ルンペンプロレタリアートが抗日の志のままに、19路軍の下層兵士たちを直接支援していったのだ。
もちろん、その後13年以上中国ほとんど全域を荒らし回った日本皇軍は結局敗北し、その後“人民の海”から生みだされた毛沢東たちが統一を勝ち取ったこと、は誰でも知っている。いまでは、
資本主義化する現在の上海の様子を聞くにつけ、“人民の海”なんていう古くさい言葉によりかかった言説は無効になった、と誰もが言うだろう。

だが、上記の引用から見る限り、<コミューンの一瞬の立ち上がり> というものがそのとき存在していたことは確かなようだ。
私の問題意識からは、十九路軍が赤軍でなかったことは返って好都合である。毛沢東は<コミューンの一瞬の立ち上がり>をうまく連鎖させて、自分の勢力下に組織するのが上手かっただけで、両者の本質は違うものだと思う。お前がコミュニストじゃあなくってアナキストの傾向を持っているだけだろ、と言われれば、まあそのとおりなんですが。

とにかく、中国軍は日本軍が(そして外国人や中国人も)思ったよりずっと粘り強く闘い続けた。日本は沢山の部隊の増派を強いられた。
三月三日にやっと中国兵を退却させ停戦することができた。
中国軍は日本軍が思ったのより強かったのですが、日本人はその事を認識できず伝達もされずしたがって、教訓とはならなかった。だから、日本は数年後から再開される戦争で、この敵を甘く見て泥沼にはまるというプロセスを、巨大な規模で繰り返すことになった。

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