松下昇への接近

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日本語から漢字を引算できるか? - 弯曲していく日常
を、野嵜健秀さんからリンクいただいた。

「てにをは」を假名で書く、と云ふ原則が既にあるのに、なんでそれ以外の語も積極的に假名で書いて「てにをは」を認識し難くしなければならないのか。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html 平成二十年六月三十日

野嵜さんは、「言葉 言葉 言葉」という國語國字問題を扱うサイトをやっておられる方です。http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/
「戰後の國字改革において、漢字制限と字體の簡略化は一貫しないやり方で行はれた。」そのことへの批判をメインとするサイトのようだ。

このサイトの制作者は、國語改革に反對する立場にあります。けれども、サイト制作に當つては出來るだけ公正な態度をとりたいと考へてゐます。國語改革に賛成の立場の人にも妥當な反論をしていただけるやう、歴史的假名遣・正字體を支持する側の意見を整理して提示したいと考へてゐます。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/Aramashi.html

 議論に対して開かれたサイトであると宣言しており好感が持てる。 福田恆存をはじめ、橋本進吉大野晋新村出時枝誠記山田孝雄藤原定家 などなどといった人々にきちんと学んで論を立てておられるようだ。


文科省が決定維持している正書法に対する左からの批判者がhituzinosanpoさんであり、右からの批判者が野嵜さんであるという構図。 野原は今のところ批判ならなんでも良いという立場(笑)か?

 国語政策あるいは国語教育の対象は常にある選ばれた価値的日本語である。これを狭義において国語と呼ぶことができる。
時枝誠記 p5 「国語学史」

時枝は自分はそうではなく日本語を対象にしていくとする。しかしそうはいいながらも「国語」学研究を続けると、いつしか国語というものに拘束されてしまうのではないか?