松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

義務について

(1)なんらかの関係の絶対性が、主観の外部に存在するというのが、左翼の特徴です。
ここでアプリオリな位相に措定されている<絶対>は、それとして語られることはないのですが、それをオタク的敏感さで察知し、倫理的に自分が責められる可能性に反応し、拒否反応を示す人たちがいます。


(2)晩年のフーコーはパレーシアについて熱心に語りました。
真理を語るものが、その行為においてみずからを危険にさらす場合、パレーシアと呼ばれていました。(ギリシャでは)p121「はじめて読むフーコーisbn:4896917944

結局のところ私たちは義務を持つ。

統治された者は、知、自分の経験、市民であるという事実、こうしたものの名において(政府に)釈明を求めることができ、またそうしなければならないのです。
「生存の美学」思考集成10


(3)
一方で「私たちは絶対的に自由だ」というアプリオリが存在する。(檻?)

あらゆる物とあらゆるふるまいは、それらが経済的交換にくみこまれうるかぎり受け入れられる(許される)という原理は、政治的意味において全体主義的でないが、言語的関係において全体主義的なものだ。というのは、それは経済というジャンルの言説に完全な主導権を許すから。
p99 「子供たちに語るポストモダンisbn:4480084290

すべてのものは有限の金銭と交換可能である。ロリコンポルノも機関銃も石油利権も。
私たちは資本主義の世の中に生きており消費の絶対的自由を疑う権利を持たない。21世紀日本の急速な右傾化の根拠には、こうした絶対的自由による洗脳が存在する。
 (1)および(2)の義務はこうした絶対的自由を脅かすので、絶対的に排除されなければならない。