松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

明治政府ちゃん

 西洋の近代国家は一神教の神のはしためであった一神教哲学に支えられて、宗教に対して開きなおっていることができる。しかし日本人は自分達が多神教だと信じて安心しているのに、実は近代のフレームの中でオカルトをやっている。本当は疑似宗教の下でひとつの現実を偽装して暮らしている!
p149 笙野頼子『一、二、三、死、今日を生きよう!』 isbn:4087748243

 西洋人が宗教からの自由を獲得してなどいないことはデリダをみていても分かることだ。*1ただそれはこの文の主題ではない。
日本人は安心している、安心しようとしている。まあそれはけっこうなことだが、根拠を問われた時、結局日本というものへの信頼しかない。まあそれも良いかもしれない。外国人と別の神を信じようとする者たちを必要以上に排除しようとせず対話できるなら。
 日本とは何かであるか?、それは何であるとしても(近代)国家ではない。*2その自明性を承認できないのものが「明治政府ちゃん」と蔑称される。

*1:わたしが自由でないということを突き詰めて数冊の本を書いてもなお足りないとうのがカントでありデリダだろう。笙野が指摘しているのはそうした安心からの自由(欠如)か。

*2:列強の海に乗り出すちっぽけな共同性であったと。そうした自己の卑小性を「神」に転化することが東アジアシオニズムとしての日本であった。