松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

習慣を批判するためには普遍性が必要

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20071110#p1 の続き

だから世界で、「強み」というのは何か?と問うと、
継続して毎日の習慣化していること
なんだ。
そこに自分の本質がある。
自己の本質を探そうとすると、まず毎日やっていて無意識に習慣化していること、好きなことを探すといいというのはそのため。
http://ameblo.jp/petronius/entry-10055035174.html

現代の生活者においても、習慣と自己の本質について上記のような意見があります。
確かに妥当な意見だと思う。カントの方が分かりにくい。普遍性がなければならないという強い前提で、カントは考え続けたのだろう。
理性その他によって作られた普遍性の王国に対しポストモダンは敵意を持ち破壊しようとする。王国(支配秩序)になってしまったものは私たちにとって疑いえない前提となってしまうが、実際はそのせいで世界に大きな不幸を招きそれを無視つづける。それを糾弾しなければならないというスタンスは理解できる。しかし、
理性が王国(支配秩序)を支えている−>理性を批判しなければならない。に対し
習慣が王国(支配秩序)を支えている−>習慣(あるいは欲望)を批判しなければならない。とも言えるのではないか。
したがってこの文では、習慣を批判する限りでの〈普遍性(への信仰)〉は必要だということを、仮の結論としよう。
(まったく未知の方の文章を引用してしまった。引用した文章自体に対し批判すべき点があると思っていませんので念のため。無断引用申し訳ない。)