松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしを観察することの困難

えー、和辻の『人間の学としての倫理学』読んでいるのですが、ちょっと中だるみ。(まだ1/3汗;)
カントが出てきたのでちょっと引用してみよう。
人間とは何か?とかいってアホちゃうか、人間なんかそこらじゅうにいるやん、お前自身もそうやん。観察すればいいだけやろ、と思いますが、それは難しいとカントは言います。

一、他の人が自分を観察し研究していると気づいた人は、当惑して有りのままの自分を示し得なくなる。あるいは自分を他のものに装って有りのままの自分を知られまいとする。
二、人が自分自身だけを研究しようと欲する場合でも、特に情緒の状態について言えば、他のものに装うというようなことは通例ないにしても、やはり同様に行き詰まってします。衝動が働いているときには観察していない、観察するときには衝動は静まっている。
三、ところとときの情勢が持続的であれば、それに適応して習慣ができあがる。習慣はよく言われるように第二の天性であって、人がおのれ自身を何と考えるのかの自己判断を困難にする。が、さらに一層、その交際している他人を何と考うべきかを困難にする。そこで人が運命によってそこへ投げ込まれたとか、あるいは自ら冒険的に飛び込んで行ったとかいう境位の変動が、アントロポロギー*1をば学らしい学に高めることをはなはだしく困難ならしめるのである。(カント)*2

 一の観察者の存在によって、対象の挙動が変化してしまうということについては、現在でも常に議論の対象になる、ことがらである。二は敷衍するならば、フロイト的なひとは常に自己を偽っているといった認識にもつながりうる。三も興味深い。儒学やおそらく過去のキリスト教においても「習慣は第二の天性」であればこそ良き習慣を身に付けることが「哲学者」の義務であった*3。カントはお固いイメージがあるところの、当為の哲学者である。しかしその「当為」の意味とは「つまり、人間は自由でなければならないし、神は存在しなければならない。そうでなければ、道徳は成立しないことになるだろう。」といったものだ。「自由でなければならない!」教育再生会議の諸君にとって理解不能のこの命令はわたしたちにとっても理解容易ではない。
すべての道徳法則と、これに従う義務との唯一の原理として、意思の自律をカントは高く掲げる。しかし、倫理/人間/世間/存在と進むわたしたちの和辻倫理学においては、そのように個人の自由が高く掲げられることはない。そのような立場を主観的道徳意識の学と呼び克服されるべきとする。
 わたしたちは21世紀になってかえって、自由の意味を見失っているようだ。わたしを観察することの困難といった地道なところから再び考え始めよう。

*1:人間学あるいは人類学

*2:p70『人間の学としての倫理学

*3:今でも校長先生などはそういうことを言うが、哲学的根拠がないので説得力がない。