松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私は生きるすべを学んだことはありません。

id:kurahitoさんから下で教えてくれた*1頁は、デリダのインタビューだ。
インタビュアーが言う。

その劈頭で次のような謎めいた言い回しが出てきます。「それが私であれ、あなたであれ、誰かが前に進み出て言う、『私はついに生きることを学びたいと願う』」。

あれから10年以上経ち、今日あなたは「生きるすべを知る」というこの欲望についてどう思われますか?
http://www.mypress.jp/v2_writers/devenir/story/?story_id=673156

『私はついに生きることを学びたいと願う』はフランス語で読んでもやっぱり謎めいているのだ。
デリダは最初それに直接答えず、本全体の中心的なモチーフについて語る。ああそういう本なんだ、この本は。読み始めながら全然分かっていなかった。例えばビルマのような世界の辺境*2であっても、インターネットを通じて彼ら自身が撮った映像などが転送される。国家〜国連というシステムがそのような情報インフラに比してもはや遅れたものとなっている。すでに必要とされているのに獲得できていないそうしたヴィジョンをこの本から手に入れることができるわけだな。

副題にもなっているように「新しいインターナショナル」への問いが『マルクスの亡霊』の中心的なモチーフです。「コスモポリタニズム」を超えねばなりません。世界規模の新しい国民国家でしかないような、そんな世界の市民にとどまるのではなく、それとは別のかたちでの世界連邦という喫緊の要請をこの本は先取りしていたと思います。いまやそれがはっきりしてきた。(同上)

その後、最初の問いに帰る。

さて、ここであなたの問いに単刀直入にお答えしておきましょう。私は1度も生きるすべを学んだことなどありません。何ひとつとして、です!

生きることを学ぶこと、それは死ぬことを学ぶのを意味する。自分のためでも他人のためでもない。人間は絶対に死ぬものだ、という事実を我が身に引き取り、それを受け容れるのです。救済はなく、復活はなく、贖罪もない。これはプラトン以来の哲学に課せられた古い使命です。哲学することは死ぬことを学ぶことなり、というわけです。

このことを真理と認めるのはそれに屈服することです。私はますます死を受け容れることを学べなくなりました。私たちは誰もが執行猶予付きの生き残りです。

それに『マルクスの亡霊』の地政学的観点から言えば、かつてなく不平等になったこの世界で、つぎのことが強調されねばなりません。2世紀前に生まれた「人権」の思想は不断に発展してきましたが、何よりもまずこれは生きるに値する人生の権利です。そのごく基本
的な人権すら拒まれている何十億もの生者たち(人間か否かを問わず)がいるのです。

死ぬすべを学ぶ叡知を私に教育するのは不可能です。いまだに私はそんな叡知について何ひとつ学んではいませんし、手にしてもいません。
http://www.mypress.jp/v2_writers/devenir/story/?story_id=673156
来たるべきヨーロッパ――闘病中のデリダに訊く(1)

なるほど。「生きることを学ぶこと」が最初の8頁「導入」の主題なのだが、デリダがどう思っていたのかわたしは分かっていなかった。ここでは「私は1度も生きるすべを学んだことなどありません。何ひとつとして、です!」とはっきり語られる。哲学の伝統的課題「死を受け容れること」をわたしは学ばなければならないと思っていない。そうは語っていないのだがそれに近い。彼が語るのは自身についての事実だ。「いまだに私はそんな叡知について何ひとつ学んではいませんし、手にしてもいません。」

生きるすべを学ぶことが「成熟」と「教育」にかかわっていることに注意せねばなりません。誰かにぶしつけに声をかけ、ときに恫喝するような口調で「お前に生きかたを教えてやる」などと言う。お前を一人前にしてやる、仕込んでやる、というわけです。

教育再生会議みたいなそういうオヤジイデオロギーですね。少しはリアリティがあるところが恐い。
生きる/死ぬことを学ぶといった問題を忌避し、だったらそうしたことは関係ない無視ということかと思うとそうではなく、「それは〈幽霊〉によってしか維持されることはできない」(同書p12)とか言い始める。
・・・
(10/2記)

*1:デリダのおかげで日本語まで言えなくなった。「教えてもらった」が正しい。

*2:かってはそうではなかった