松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

わたしは生きることを学びたい、今になっても。

わたしは生きることを学びたい、今になっても。
わたしは今日街である哲学者の本を買った。最初の1行が気に入ったからだ。
「わたしは生きることを学びたい=教えたい、終に。」
あるわたしの行為はなんらかの関係から与えられた課題に答えるべくなされる。そうでない場合はないのではないか。ブログを書くなどよくチラシの裏などといわれるとおり、無為な=自由な行為だ。と思われているが実は違う、読者を措定しその人に気に入られるべく書いているにすぎない。そうであるとすると、わたし、わたしとしてのわたしは一体どこにいるのか? これはいわゆる青臭い問であるが、別に虚偽の問いである訳ではない。あるきっかけでわたしは今朝その問に囚われていた。*1
・・・

それで本屋でこの本を見かけ買ってみたのだ。

わたしは生きることを学びたい=教えたい、終に。

ところで、生きることを学ぶ=教えること、それを一人で、自分から学ぶこと=自分に教えること、これは生ける者にとって不可能なことだろう。しかし・・・
倫理とよばれるそのことほど必要なものはない。すなわち、−−一人で自分自身から−−生きることを学ぶということは。生は、それ以外の形で生きることを知らない。ひとりで自分自身で生きることを学ぶこと以外、ひとはすることがあるというのであろうか。
デリダマルクスの亡霊たち』p10-11 の一部を勝手に変更 isbn:9784894345898

まあそのとおりだが、それで?

生きることを学ぶ=教えることは生と死との境でしか起こりえない。
・・・何らかの幽霊によってしか維持されることはできず、またなんらかの幽霊を語ることしかできない。 (同 p12の変更)

と突然「幽霊」が出てくるのだが?
「幽霊」とは、<もはや>あるいは<まだ>現前しておらず活きていない者たち のこと。
なんらかの非節合、もしくは不均衡の運動を通じてやってくる(ことがある)〈問い〉。自己との不一致を通って。そのような問いにおいて現れるのが幽霊だ。
現実というのものがすでに大昔に発見されたいくつかの矛盾の組み合わせにすぎないとすれば、〈生きること〉とは、<もはや>あるいは<まだ>現前しておらず活きていない者たちとの共闘の(不)可能性に他ならない。

*1:こんな文章を書いていた。「野原が刊行委員会でなければならないという当為がまず存在し、〈わたしにとって今魅惑的な作業〉 という点が希薄になっていたと思います。」