松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

自由の権力性とは何か

井上(達夫)は、自由な主体は自己の目的実現のため、世界を形成・変更する力を要求するとしたうえで、この要求は「他者を支配する権力への意志に容易に転化する」と述べる。*1

 ふーん。
わたしたちはすでに国家〜資本の圧倒的な支配のもとに居るので、その「支配」を相対化することがまず必要であろう。自由な主体例えば麻原ショウコウは悪をなす場合もあるが、国家悪より小さい。そのような反問に対しどう答えるのかよく分からない。

自由が権力志向を有することは、そのとおりである。*2

いわゆる戦後民主主義は「自由」という言葉に美しい価値だけを認め、自由の危険性を直視しなかった。

しかし他方で、この自由の権力性指摘によって自由と国家権力の対抗関係があいまいになってしまっては、国家権力への限定という立憲主義の根本原則が弱められかねない。他者を受容すべきは悪魔的「権力」であり、権力を握った者にもはや自由が認められないのは当然である。だが、市民的自由は権力を目指すものではあっても、権力行使そのものではない。(略)そして、無力な自由に「自己規律・自己限定」を求めることは、かえって権力による過度の自由制約をもたらす危険が大きい。*3

彼ら*4の危惧の背景にあるのは、政治において自由に委ねておいては、理性は生まれないという想定である。だから、自由を制限しなければ多様な価値観は共存できないということになる。*5

これは全共闘時代の体験の総括として言っているのかな。まあ「理性は生まれなかった」。で、機動隊導入によって理性は活性化したのかね。今日の奴隷情況が用意されただけでは?

具体的問題において何が公正な解決法なのかは、自由かつ開かれた議論を経なければ分からない。*6

論争の当事者たちが、普遍的視点からの理由づけというより強い説得力によってより多くの人々を巻き込もうと努力することによってのみ、より公正な世論形成に近づくことができる。*7

 結局のところわたしたちは〈自由かつ開かれた議論〉への信頼に依拠する。
しかし、その信頼に対する最終兵器としてすでに2ちゃんねるが存在し、信頼は崩壊寸前だ。*8

*1:同書 p9

*2:同書p10

*3:同書p10

*4:長谷部と井上

*5:同書p10

*6:毛利 同書p11

*7:毛利 同書p11

*8:といわれているが、従軍慰安婦問題を論じるテーマに即しても、それはデマでしかない。