松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

イム・グォンテク『祝祭』

死がそのたびごとに宣告するのは世界の全面的な終焉、およそ考えられうる世界の完全なる終焉なのです。それはそのたびごとに、ただ一つの−−それゆえ、かけがえのない、果てしない−−総体である世界の終焉を宣告しているのです。
デリダ 『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』

今日は、上に書いた1996年の韓国映画をDVDで見た。3日間も派手に続く韓国のお葬式を描いた映画。
認知症(痴呆)になってさんざん回りの人に迷惑を掛けたあげく86歳で死んでいく老女が主人公。でも彼女は働き者で誰にでも優しく、それまで皆に愛されていたようだ。
http://www.hf.rim.or.jp/~t-sanjin/rim_shukusai.html
輝国山人の韓国映画 イム・グォンテク 林權澤 祝祭

http://www.magazine.co.jp/features/movies/yodogawa/1070shukusai/home.html
CINEMASCAPE: 淀川長治の新シネマトーク

 韓国では、お葬式がお祭りみたいに派手なんですね、だから『祝祭』――これはお葬式の映画なんです。なんで祝祭かというと、死ぬことは一つのお祝いなの、人生の終りはね。

淀川長治の映画評はやはりなかなかよい。

世界は消え失せている、
私はおまえを担わなければならない。*1

この映画では、老女の死を全面的に〈担わなければならない〉のは、彼女の孫娘。
その不可能を担うため彼女は一つのファンタジーをでっち上げる。
そのひそかな営みを含めて、「果てしない総体である世界の終焉」を終わらせるためには、村中総出で飲めや歌えで送りださなければならないのだ。

*1:パウル・ツェラン「大きな、赤熱した穹窿」『息の転回』より (デリダp27『雄羊』isbn:4480090207)から孫引き