松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

朱子学と自由の伝統

これまでの講義の中で、私は宋代の新儒学について「自由的精神」を表している一群の観念を検討してきた。まず最初に見たのは「道統」の観念であった。これは、個人が伝統の中から新しい意味を発見しそれを根拠として一つの批判的立場を確立し、そこから世に横行する諸悪を攻撃し、改革を押し進めようとする過程を表していた。
次いで第二講で論じたのは「為己之学」(自分自身のための学問)という理念であり、これは私的ならびに公的教育において、個人の自発性を強調するものであった。この自発性の重視ということと本質的に関連するのは、共同体あるいは講学(集団による学術的討議)において見られる相互扶助の精神である。「博学」という観念も、さまざまな事実に関心を持ち、他人のしている学問に興味の目を向けることによって、自分自身の結論に到達する手助けにしようとするという意味において、それはまた「為己之学」に関連することでもあった。
第三講で私が問題にしたのは、個人を中心にすえた二つの観念、「自任於道」(道に対して責任を負う)と「自得」であった。この二つの観念は、宋代の知的エリートが演じた公的役割と彼らの学術活動に特徴的に現れている、道徳的文化的個人主義を表現している。

 これら一連の観念は、朱熹以後、宋末から元を経て明に至るまで、「道学」の理念を表すものとして伝えられて行った。「自任」という観念から、道徳の点で英雄たる個人を崇拝する態度が生まれ、この態度にはまた「道統」観念が深く関わっていた。
p195 Wm.T.ドバリー『朱子学と自由の伝統』isbn:4582841074

「己のための学」というスローガンは安倍首相の反発を呼びそうである。「己のため」ではなく「公のため」というパラダイムチェンジが求められているとか言うのではなかろうか。その時個人主義は西欧起源のものだとして否定的に捉える価値観が前提とされている。しかし東洋にも個人主義自由主義はあった。ただし、私と公を対立的に捉えるのではなく、天理*1を自らの内に養う境地を獲得できる=聖人を理想とするものであった。
安倍首相などは東洋三千年の自由の伝統に無知なため、自由を否定し強制を肯定してしまう。それでは個人の自発性は育たない。仮にふぬけのような盲従者が大量生産できたとしても価値がないのだ。

上記は中国のことだが、日本はどうなのかといえば例えば次のような道歌がある。

心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神やまもらん

儒学のように難しい理屈はこねていないが、ここで言う「誠の道」の背後には上記のような理屈が畳み込まれ生活者の立場で咀嚼された思想がある、と考えることは十分出来る。

*1:「公」は天理の一側面だろう