松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

中国戦後補償裁判:西松建設最高裁弁論について

“受け継ぐ会”MLより、ジャーナリストの梶村太一郎氏の文章を転載する。「各方面へ転載して下さって結構です。」とのことなので。戦後補償の問題についてわたしは勉強不足ですがとりあえず資料として。

「紙の上の約束」を反古にしてはならない
  =西松建設最高裁弁論について=

穂積 剛さま、
中国戦後補償裁判支援のみなさま、

梶村太一郎です。

みなさまの各方面でのご活躍に深く感謝いたしております。

 わたしは、西松裁判の最高裁上告受理の3月16日という期日が、4月の温首相訪日を控えてのものであることからも、靖国問題以上の外交問題に発展する危険があると、非常に深刻に考えています。

 ご存知のように、先の大戦での不法行為に対する個人の請求権に関しては、戦後60年間を通して、とくに(西)ドイツで延々と議論され争われてきました。そこでの強制動労に関する個人補償については、ようやくドイツ再統一後、2000年7月の基金方式による一括解決がなされました。当時、日本での同様の強制労働である花岡事件の和解交渉を横目に、息詰るような厳しく激しい国際交渉を現場のベルリンから、主に『週刊金曜日』誌上で報告したときのことは忘れることはできません。これはドイツ国家と企業が基金を折半して実現した「巨大な和解」(拙稿『季刊中帰連』16号2001年春号「ベルリン歳時記」)でした。

 当時は大状況を報告するだけで、詳しくは触れなかったことを、現在の西松裁判の危機に際して、以下簡単ですが4点ほど書いておきます。

(1)
 この基金による、主に東欧諸国の被害者に補償金の支払いがほぼ終わったのはやっと昨年末です。これにより、ドイツは先の大戦の「残された道義的債務を最低限履行した」のです。注目すべきは、若者たちが経営する小さなベンチャー企業までが、自主的に出資していることです。当たりまえですが、戦後できた企業には一切の法的責任などありません。彼らの参加の動機はドイツ社会の「企業経営者たちの純粋な道義的責任感」でした。目立ちませんが、戦後のドイツ社会の民主主義の成熟を、ここに見て取ることができました。被害諸国が「ドイツは変わった」と感じることができる裏付けとしては、政治家や大企業の取締役の言動だけではなく、このような事実もあったのです。昨年末の2006年12月31日付けで、166万5000人の被害者に対し合計43億7300万ユーロ(現在のレートで約6900億円)の個人補償の支払いを履行しています。

 日本では、基金に関して、ようやく昨年、研究者によるまとまった報告書がでています(残念ながらわたしは未読ですが):

ナチス・ドイツの強制労働と戦後処理
国際関係における真相の解明と「記憶・責任・未来」基金
田村光彰
http://www.shahyo.com/book/1322.html

同書の紹介文には次のようにあります:
ナチス・ドイツによって強制連行され、生死の境目で労働させられ、敗戦と共に放置された異国や占領地の人びと。2000年7月、強制労働者に補償を行なう財団が正式に発足した。それは、加害の歴史を直視するドイツ市民と、被害者・遺族の尊厳を取り戻すための闘いの成果だった。」
この見解に、現場でこの過程を追った者として、わたしも全面的に賛同するものです。この巨大な和解は「人間の尊厳の擁護という道義的な基礎」(広渡清吾1996年=後述)によるものであり、法律はそれを実現する手段であるにすぎないからです。

(2)
 当時のシュレダー政権は、98年の発足当時、緑の党との連立協定にこの問題の解決を政策目標のひとつに採り上げており、緑の党が長年追求してきた懸案を履行したのです。いわば、ドイツの68年世代政権の成果と評価することもできます。しかし、実際の実現に際しては、シュレダー首相は当時、野党に下ったFDP(自由民主党)の元党首で経財相でもあった老獪なラムスドルフ氏を立て、いわば超党派の体制で、クリントン政権の交渉人のアイゼンシュタット氏 とワシントンとベルリンで一週間ごとの交渉を続けました。交渉妥結後の連邦議会での関連法案も超党派の賛成で成立したものです。すでに引退して議席のないラムスドルフ氏が例外的に、夏休みを返上しての臨時国会で、法案提出の演説(同年8月2日)をしたのですが「わたしの政治家としての長い生涯でこれほど連邦議会で満場の拍手を受けたのは初めてのことだ」と述べたことも忘れられない光景でした。関連諸国がこのようなドイツの議会のありように注目したのは言うまでもないことです。

 それより前の7月17日、妥結した国際協定にサインをしたアイゼンシュタット氏が記者会見で「いまだに過去の歴史に責任を取らない国(すなわち日本のこと=梶村)があるが、人類史上最悪の犯罪に対して、ドイツは明瞭な道義的規範を示した」と述べたことは世界中に広く報道されましたが、なんと日本ではわたしが伝えただけのようです(『週刊金曜日』2000年8月11日号)。

 それよりも何よりも、この日、記者会見場で配られたドイツとアメリカ両国間で取り交わされた協定の文書に目を通して、わたしが驚いたのは、この協定で、初めて「アメリカ合衆国第二次世界大戦での対ドイツ賠償請求権を放棄する」との一行でした。
国家の東西分断で対独講和条約ペンディングされていた事実(専門的表現では「53年のロンドン債務協定における、賠償問題請求権審査に関する最終規整のモラトリアム」)は知っていましたが、2000年にいたるまで合衆国が対独請求権を留保していたことは知りませんでした。てっきり、90年の「ドイツ統一に関する最終条約」(いわゆる4プラス2条約)でケリがついていたと思い込んでいたのです。アイゼンシュタット氏の言葉には「したがって、アメリカ合衆国は対独請求権を放棄する」という内容が続いていたのです。

 そして今、西松裁判で最高裁日中共同声明にある「中国政府の賠償請求権放棄」を楯に、中国人市民の個人請求権までを「放棄した」と決めつける危険性を前にして、この事実を思い出さずにはいられません。第二次世界大戦での賠償請求権は、独米間では、「ドイツが明瞭な道義的規範を示して初めてアメリカが放棄」したのですが、日中間では「中国政府が放棄したから、日本は道義的規範を示さない」という、逆立ちして鏡を見るような上下左右が逆転した日本の姿が現れます。

 最高司法機関がここで、国権の名の下に人間の尊厳を排除するような判断を下せば、日本の司法は普遍的な道義的基盤を全面的に喪失した滑稽な姿を自ずから証明することになります。このような姿勢は、中国はもちろんのこと、アジアの被害諸国、そしてもちろん、ようやく近年になって国際刑事法と国際刑事常設裁判所を持つことができた国際社会でも、到底容認されるものではないでしょう。

 1972年9月の日中国交回復成立の後の11月9日、周恩来総理は中国帰還者連絡会の訪中団代表と懇談して、長時間大いに語り、別れの挨拶で藤田茂会長に次のように述べています。

「せんだって私と田中首相は、国交回復の共同声明を発表しました。これは経済基盤を異にする二国の総理の紙の上の約束です。本当の国交回復といいますか、友好は日本人民と中国の人民が心から理解し合い最後に深い信頼関係になるときにはじめて、子々孫々にいたるまでの温かい友好関係が結ばれるものと存じております。これには永い年月がかかります。藤田先生はもう相当なお歳ですし、私も歳です。ある時間は短いものですが、ひとつ努力して、このことに邁進しましょう。」(『帰ってきた戦犯たちの後半生』中国帰還者連絡会編 1996年、180頁)

 周恩来総理の亡くなるほぼ三年前のこの言葉は、いわば彼の日本人への遺言のようなものです。それから34年を経て、中国も当時は予想できなかった大きな社会変化を遂げています。経済力の進展とともに国際的地位も目覚ましい発展を達成しています。冷戦終結後の90年代、崩れた氷山の下から噴出するように現れたアジア諸国の被害者たちの日本国家と企業に対する補償の請求は、だれも押しとどめることはできない歴史の必然です。従来の国家間の戦時賠償請求権と、新たに問われた個人の補償請求権の関係と拮抗は、20世紀後半の人権法規の課題でした。苛酷な世界大戦の経験から生まれた「国連憲章」と「世界人権宣言」にうたわれた理想の実現へ向けた大きな課題でした。

 例えば、日本と同じ敗戦国である戦後ドイツの新憲法(49年ボン基本法)には:
第一条第一項「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力の義務である」、および、第二項「ドイツ国民は、それゆえに世界におけるそれぞれの人間共同体、平和および正義の基礎として不可侵の、かつ譲歩することのできない人権を認める」とあります。

 まず「国家に対し、普遍的な人間の尊厳の不可侵と尊重を義務付けて」おり、その上で、「ドイツ国民は平和と正義の基礎としての人権を認める」と宣言しているのです。戦後ドイツの個人に対する長い間の戦後補償の履行は、この憲法の大原則の遵守の現れであったということができます。国家の再統一後まで、長い間、忘れられ残されていた強制労働被害者に対する補償は、官民が一体となった憲法の遵守と履行でした。戦争犯罪に対して責任のない若い起業家たちまでが、なぜ補償基金に寄付行為をしたかの憲法上の理由としては、第二項を挙げることもできるでしょう。彼らにとっては「現在の憲法の遵守行為」であったからです。これも、戦後ドイツ社会の、いわゆる「憲法愛国主義」の内実のひとつであり、これによって民主主義を実体化させているのです。そしてこれによって、かつての被害諸国の人々に「ドイツ人は変わった」との認識と信頼をもたらしているのです。

(3)
 このように見ると、周恩来首相の「人民が心から理解し合い最後に深い信頼関係になるときにはじめて、子々孫々にいたるまでの温かい友好関係が結ばれるものと存じております。これには永い年月がかかります」との言葉に応える実践をしているのは、ドイツ社会であるともいえますが、では呼びかけられた当事者の日本はどうでしょうか?

 1972年の日中共同声明の第5項には「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とあります。またこれを基礎とした78年の日中平和友好条約では、前文に「共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し」とあります。これをもって「中国国民の日本国に対する戦争賠償の請求権を放棄した」と判断することはできません。この件に関しては、1995年3月、当時の銭其シン国務院副総理兼外交部長が、全国人民代表会議で「日中共同声明は、中国人民が個人の名義でもって日本政府に対して賠償を請求する権利を放棄したものではない」と表明しました。これが中国政府の「共同声明の諸原則を厳格に遵守した」見解です。

 これは、例えば1958年、日本はインドネシアとの平和賠償条約、「日本国とインドネシア共和国との間の平和条約」締結にさいして戦時賠償の支払いを締約しました。その上で「インドネシア共和国は、前項に別段の定がある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償請求権並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する」との条項があります。ここに「共和国及びその国民」という言葉があることと比較すれば、中国政府の見解は、極めて当然の解釈であることが判ります。しかもこの条項の主語が「インドネシア共和国」であり、「その国民」ではないところから、「その国民は請求権を放棄したことにはならない」との法解釈も可能です。ましてや「被害国国民個人の日本の民間の加害企業に対する請求権までが放棄されている」とすることはできません。日本がサンフランシスコ平和条約に基づいて、締結したかつての被害諸国、交戦諸国との「平和賠償条約」や「血債協定」には、同様な規定がしばしば見られます。

 以上のような事実からして、もし西松建設事件に関して、最高裁判所日中共同声明第5項を根拠に「原告の請求権は放棄されている」と判断し、高等裁判所の原告勝利判決を覆すようなことが起これば、それは本件だけでなく、他の多くの戦後補償請求事件の原告の権利を否定することにもなり、およぼす影響は甚大です。

 日中両国は共同声明に基づき、国交を回復し、その後両国政府と国民は関係は多方面で実に深い関係を築いてきました。もはや「両国総理の紙の上の約束」ではないのです。しかし、ここで最高裁が、以来開放政策を進め民主化に努力し続けている中国国民の権利を排除すれば、それは「紙の上の約束をも反古にする愚かな行為」となります。国交回復以来の両国の政府と国民の、長く地道な友好の努力の根底を否定する暴挙とみなされ、事は日本の総理大臣の靖国神社参拝問題どころに止まらない深刻な事態を招きます。
 
 戦時賠償問題は、戦争犯罪処罰の問題のひとつとして20世紀の歴史を規定し、さらに今世紀を規制する大きな課題です。世界史の大道に逆行する判断を国の最高司法機関が下すとなれば、日本国の威信は国際間で地に落ちる事は確実です。

(4)
 東京大学社会科学研究所教授の広渡清吾氏は、戦後個人補償請求問題に関して、わたしの知る限りでも早くから解決へ向けた立法を提案している専門家です。
90年代半ばから、従軍慰安婦問題に関して、ドイツの判例を参考にしつつ「侵害国が被害者に対して国内法上の請求権を与えることが、国際法上の原則(外交的保護の原則)によって排除されるものではない」、「戦後補償の形態は民主主義的な合意によって、国内実定法として基礎づけられることが望ましい」、「法の解釈・適用には人間の尊厳の擁護という道義的な基礎が必用だ」(『法律時報』96年10月号、広渡「近代主義・戦後補償・法化論」)と述べています。
 事実、上述の2000年のドイツの強制労働被害を補償した「記憶・責任・未来」基金と、その関連立法は、この通りの内容となりました。このような意見こそを、最高裁判所には、来るべき判断の参考にしてほしいものです。
被害者たちの尊厳のためだけではなく、わたしたち日本人の尊厳を反古にしないためにも。

ベルリン 2007年1月25日

 国境を越えた戦後補償の問題は、法律に基づいて決定できるものではない。結局のところ、第二次世界大戦をどう捉えるかという国民の意思の問題であろう。
「戦後60年間を通して、とくに(西)ドイツで延々と議論され争われてきました。そこでの強制動労に関する個人補償については、ようやくドイツ再統一後、2000年7月の基金方式による一括解決がなされました。」ドイツでは一定の解決がなされた。
日本国家もいままではそれを参考に落としどころを探っていたものと思われる。しかしここへ来て一挙に後退した「意思決定」が出る危険性が高まっているようだ。